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コツンのおと


『乾杯』は幸せだ。

『かんぱーい!』っていう掛け声も

グラスを持って待ってる人達も

ごちごちとグラス同士が当たる音も

全てに幸せが溢れている。

ちょっと嫌なことがあっても、かんぱーい!と言われてグラスを差し出されたら、思わず笑顔でグラスをごちっとさせてしまう。

                       ◇

『そういえば、乾杯ってなんでグラスをぶつけ合うんだろう。』

私はふと、そう思ってデスク隣に座ってるMちゃんに聞いてみた。

『さぁー。。そんなの考えたこともなかったです。』

Mちゃんは首を傾げながらそう言った。

私はさっそくスマホを取り出して、検索サイトで調べてみることにした。『乾杯でグラスを当てる 理由』と入力すると、ズラズラと検索結果が表示された。

その上位の何個かを読んでみて、私はMちゃんに再び声をかけた。

『なんかさ、中世のヨーロッパでは毒殺が流行ってたらしくて、グラスをぶつけてお互いの飲み物を入れ合うことで「毒が入ってませんよー」っていうアピールのためだったらしい。』

『結構物騒な理由だったんですね。』

Mちゃんが眉根に皺をよせて真面目な顔をするので、ふふふ、と笑みがこぼれた。

『あ、あとグラスをぶつけた時の【コツン】って音が悪魔祓いにもなるらしいよ。』

『【コツン】なんて可愛らしい音で悪魔なんて去るんですかねー?』

更に真面目に考察してるMちゃんに私は思わず吹き出してしまった。

                         ◇

乾杯の【コツン】で1つ忘れられないエピソードがある。

私がはじめて就職した時の事。歓迎会と銘打って、部内で飲み会が開かれることになった。まだ入って1ヶ月もたっていない会社の飲み会なんて、宇宙船に連れ去られてきた人間のように、なす術もなくただ座って皆を眺めることしかできない。

『かんぱーい!』

そう言ってグラスを傾けて私のグラスに当てる。次から次へとやってくるグラスを見ながら、『まるで部族の通例儀式のようだな。』と笑顔で乾杯をする人達に作り笑いをしながら心の中で毒づいていた。

あの頃の私は全てに対して卑屈になっていた。社会というステージに登る不安が私を怯えさせ、自分を守ろうとして必要以上に尖っていた。優しさなんか嘘ばかりだとヤマアラシのように自ら棘を放っていた。

そんなスタンスで仕事をしていたものだから、あっさりと歪みはやってきた。人ともうまく融合できず、それに付随して仕事もうまく進まなくなっていく。私は仕事にも人間関係にも疲れて、心はすっかり憔悴していた。

ある日、T課長が声をかけてきた。T課長はもたいまさこみたいな顔と雰囲気の人だった。社内会議で見かける程度の人で、ほとんど話すこともなかった。何を考えているのかよくわからない人で、正直少し苦手だった。

『退職するって聞いたんだけど、今晩ご飯でもどう?』

今までろくに話したこともないT課長のお誘いに一瞬面食らったが、私は反射的にはい、とうなずき一緒にご飯に行くことになった。

繁華街から少し外れた所にある、小さな居酒屋に彼女は連れて行ってくれた。椅子に座るなり彼女は「生ビール。ジョッキで。」と言い、私に「○○さんは?」と促してきた。私は慌てて「同じもので。」と言った。メニューくらいゆっくり見せてくれても良いのに、と思いながら私は彼女の横顔をチラリと見た。真っ直ぐに前を向いて、どんな感情なのか全く読み取れない顔をしながら座っている。

ほどなくビールが2つ運ばれてきた。私がT課長に「乾杯。」と言ってジョッキを当てようした時、T課長がこう言った。


『あなた、よく頑張ってたよ。あの仕事量をこなせられるなら、どこの場所に行ってもやっていける。』


それだけ言うと私が持っていたジョッキに【コツン】と乾杯をした。

その音は私に優しく響き、そのまま心にも響いていった。敵ばかりだと思っていた職場。手負いの獣のように、優しく思いやりを持って接してくれた人にも牙をむいていた。私は誰とも馴染めなかった。いや、馴染もうとしなかっただけだ。

【コツン】という音がダイレクトに体に入ってきて、私はT課長の思いやりに触れることができた。気を張っていたものがはらはらと落ちてきて、急に世界は優しくなった。気付くと私は泣いていた。T課長は黙ったまま背中をさすってくれた。

                        ◇

それから間もなく会社を辞めたが、あの時T課長が【コツン】と乾杯してくれたことで、私の心の悪魔が去っていったような気がした。周りの人も、社会も、本当は怯えるほど怖くはないのかもしれない。そして、怯える私を優しく見守ってくれる人もちゃんといたんだということを知る事ができた。

少し休んでから、私はまた社会復帰をした。その時に開いてもらった歓迎会で、私は今度こそ笑顔で乾杯ができた。

T課長がしてくれた乾杯の【コツン】の音は今もずっと心の中で響いている。

                       ◇

 Mちゃんが不思議そうに私を見ていた。

『○○さん、さっきからなんでニヤニヤしてるんですか?』

『Mちゃん、いつか周りが落ち着いたら飲みに行こう。』

『え、でも私は「かんぱーい!」なんてやりませんよ。』

ちょっと苦笑いのMちゃんに私は笑顔でこう言った。

『【コツン】ってできればいいよ。』













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