とき子と鉄瓶 (前編)


『とき子さん、鉄瓶を成仏させてあげてね』

それが母と交わした最後の言葉だった。


                      ◇


『母さん、それだけでは何の事なのかわかりません』

とき子は仏壇に向かって話しかけた。

正座をしているとき子の目の前には、例の鉄瓶がちょこんと座っている。

鉄瓶は、座布団の上に置かれていた。

母の骨納めも終わり、全てがようやく片付いた時に、とき子はあの遺言らしき言葉を思い出したのだ。

『これをいったいどうやって成仏させるのでしょうか』

とき子は、恐る恐る鉄瓶の突起を掴んで蓋を開けてみた。金属が擦れる独特の音がした。


【ん、あら。鈴子ではなくて、あなたは一体誰かしら?】


とき子は酷く驚いた。それはそうだ。鉄瓶がいきなり喋りだしたのだから。けれど、とき子はあまり感情が表に出ない。鉄瓶からしたら、特に意に介した様子もなく淡々と喋りだしたようにも見えた。

『あ、はじめまして。私は鈴子の娘のとき子です』

【鈴子はどうしたのかしら】

『はい。。母は3ヶ月前に亡くなりました』

【あぁ、そうなの。。】


とき子の家族は父、母、とき子の3人家族であった。昭和の時代にしては珍しく核家族の家庭であった。

父はとき子が中学生の時に肺癌で亡くなった。そして、母も同じ肺癌で亡くなった。

『それで、母が遺言のようなものを言い残していきまして』

【それはどんな言葉なの?】

『鉄瓶を成仏させてあげてね、と』

【私のことを?】

『ええ』

『けれど、一体どうすれば成仏できるのかがわからないのです』

【鈴子がそう言ったのね】

『はい』

【そう。。。鈴子は私を買って間もない頃から私に話しかけるようになったの。       「鉄瓶、あのね」                         「鉄瓶、今日はこんなことがあってね」    って。そのうち私も話ができるようになって、鈴子と色々な話をするようになったの。もちろん、あなた、娘の事もよく話をしていたわ。】

とき子は鉄瓶が話す言葉をじっと聞いていた。

【私を成仏させてね、か。鈴子は私も一緒に黄泉の国へ連れていきたいのかもしれないわね。そりゃそうよね。1人で死ぬのは寂しいものね】

鉄瓶は少し蓋を震わせた。

『なにか、母と話していた中で「成仏」で思い当たる事はありませんか?』

【成仏。。ねぇ。。そういえば、最近あまり話さなくなってしまっていたものね】

とき子の母、鈴子は亡くなる半年前から病院で入院していた。とき子は鈴子の着替え等を渡しにほぼ毎日病院へ通っていたが、母が鉄瓶の事に触れたのは死ぬ間際のあの一度だけであった。

『そもそも「成仏」というのは、未練を解消してあげるという事だと思いますので、鉄瓶さんがやって欲しかった事を色々と行っていけば良いのではないでしょうか』

【私がしたかったことね。そうねぇ】

鉄瓶は少々悩んでこう言った。

【雅文の書斎へ連れていってくれる?】


                        ◇

雅文とは、とき子の父の名前である。

生前、雅文は大学の教授をしていた。あまり喜怒哀楽が表情に出ないので、それがとっつきずらいと感じる人からは敬遠されがちだった。けれど、とき子は雅文の抑揚のない感情が心地良かった。きっと自分も似たような人間だからかもしれない。

とき子は鉄瓶を持って仏間を出ると、廊下突きあたりまで歩いていき、古びた襖の戸を開けた。

部屋の明かりをつけると、6畳間の洋室が現れた。部屋の両側には天井まで届くくらいの本棚があり、その中にはぎっしりと本が詰まっていた。中央にはアンティークの装飾が付いた木の机と椅子が置かれている。

久しぶりに父の書斎に入った気がする。
埃と家独特の匂いが混じりあって、とき子はまるで別の人の家にお邪魔してるような気持ちになった。机の上を人差し指でなぞってみる。指を裏返すと真っ黒な埃が付いていた。

『掃除も、もう少しやらないといけませんね』

【別にしなくたって良いわよ。あ、あれあれ、あの本を取ってちょうだい。そうそう、その茶色の本よ】

とき子は鉄瓶に指示を出されながら、お目当ての本を取り出した。

分厚い紙で綴じられた重厚感のある本だった。全部で何ページあるのだろうか。辞書のように重い本であった。

本の表紙を見ると『理性と愛情の本能論 波多野 雅文 著』と書かれていた。

【それを持って台所まで行ってちょうだい。】

鉄瓶の言うとおり、本を抱えて部屋を出るとそのまま台所へと向かった。

本を台所まで持ってきた所で鉄瓶が言った。

【さぁ、次は私でお湯を沸かしてちょうだい】

何で急にお湯を沸かすのかわからないまま、とき子は鉄瓶に水を入れて火にかけようとした。

【あぁ、だめだめ。蓋はちゃんとずらさないと】

慌ててとき子は鉄瓶の蓋をずらした。

【あまり強火も駄目よ】

ほろほろとした火加減を見ながらとき子は頷いた。

少しの間、ふたりに沈黙がおとずれる。

『あの』【ねえ】

同時に声をかけてしまい、お互いに譲り合う。そしてとき子から話し始めた。

『あの、母さん、母は、鉄瓶さんにどんな話をしていたのですか?』

【そうねぇ。他愛もない話が多かったわね。その日にあった出来事をつらつら話したりして。でも雅文の話は愚痴が多かったわね。あの人が何を考えているのかわからない、こちらの気持ちも全く考えていない、とか】

『父の事も話していたのですね』

とき子は少し驚いていた。とき子が覚えている生前の母はいつもニコニコしていた。愚痴愚痴と不満を漏らしている姿など見たことなかった。私や父に隠れて、鉄瓶には色々な胸の内を話していたのだろうか。

暫くぼんやりと考え事をしていたが、とき子はハッと思い出したように鉄瓶に聞いた。

『そういえば、鉄瓶さんが言いかけた事って何でしょうか』

そう聞いた所で鉄瓶の口元から白い煙が漏れ出てきた。

【そろそろお湯が沸くわ。とき子、雅文の本を適当な所で開いてちょうだい。私を持つ時は取っ手に布巾を巻いてね】

とき子は台所のテーブルに置いてある本をバサッと開いた。栞の紐が挟まれている箇所が開かれた。

『愛情は心の持ちようが大事である。それは時折感情を伴わずとも示す事が可能である』

本の途中にそう書かれていた。

【とき子、その本にお湯を掛けてちょうだい】

とき子は少し躊躇ったが、布巾で取っ手を持ち、テーブルで寝かさせられている本の上に少しお湯を注いだ。

薄い紙がみるみるうちに縮み上がって、インクも滲んで読めなくなっていく。まるで本の阿鼻叫喚を見ているようであった。

くちゃっとなったページを見て、とき子は鉄瓶に言った。

『これが、やってみたかったことなのですか?』

【うーん。。。あんまり楽しくないわね】

鉄瓶は苦々しそうにそう言った。

『本を駄目にしたい訳ではなかったんですね』

【雅文は鈴子の気持ちを全く考えてなかったわ。アイツが書いた本を滅茶苦茶にしてやりたかったんだけど、何かが違うわね】

とき子は鉄瓶の中に残ってるお湯を捨て、蓋を開けたまま鉄瓶を乾燥させた。

『。。。母は、私にも不満があったのでしょうか』

【雅文とは違うけれど。。愛がある故に一歩踏み入れられない事は誰しもあるわよね】

台所の窓には小さい風鈴が付いている。もういつから付いていたのか忘れてしまうくらい昔からそこにある。

熱気を含んだ風がほわっと入ってきて、ちりんちりん、と風鈴が音をたてた。

『あの、さっき鉄瓶さんが言いかけた事、何を言おうとしてたんですか?』

【あ、それね。。。。私、海を見てみたかったの】

                       ◇

とき子達の住む町は海沿いの町だった。とき子の家からは10分もかからずに海まで着くので、時折家族で海へ行ったりもした。

家から海沿いまで歩いて行くと、段々と潮の香りが鼻の中に充満していく。風に含まれる塩分も濃くなっていき、空気中をなめるとしょっぱくなるのではないかと思い始める頃、ようやく眼下に海の姿をとらえることができる。

最後に家族3人で海に行ったのは、雅文の病が発覚して間もなくの頃であった。3人とも言葉少なに海へと歩いた。とき子の前を歩く父と母はお葬式に向かう参列者のように、背中を小さくまるめてうつむき加減に歩いていた。

天気はあまり良くなくて、ねずみ色の空と海が眼下に広がった。

一定のリズムで寄せては返す波の音を聴きながら、とき子達はただ海だけを眺めていた。

とき子は子供ながらにその場を温めようと気の効く会話を模索した。けれど、元々社交的なタイプでなかったとき子にはあまり容易な事ではなかった。

会話を想定しては、頭でかき消しているうちに辺りはすっかり暗くなってしまった。

結局皆一言も発する事なく家路へと戻っていった。暗くて固そうな夜の海が、メトロノームのように一定のリズムで波うっていた事だけ、とき子の頭にやたらと鮮明に残っている。

                       ◇

『海。。ですか』

【鈴子が海を見たいとよく言っていたの。海に行くには少し勇気がいるけど、本当は海はとても美しくて心が安らぐって。結局鈴子は海に行けたのかしら】

私の記憶の中では、母があの日から海に行った気配は見えなかった。私も母も、あの日の黒い海のまま時が止まってしまっているのかもしれない。

『なら、行ってみますか?海に』

とき子は鉄瓶にそう言った。


鉄瓶を片手に町中を歩く女子高校生の姿は少し異様な光景であった。

昼間の海町は人もまばらであったが、とき子とすれ違う人は皆いぶかしげに彼女を二度見していった。

それを見ている鉄瓶の方がなんだか申し訳ない気持ちになり、【私の事は袋か何かに入れてくれれば良かったのに】と言った。

『別に大丈夫ですよ』

そう言って少し笑うとき子を見て、鉄瓶は昔の記憶を少し思い出した。

                       ◇

鉄瓶は雅文と鈴子の2人に買われた。金物屋の中で眠っていた鉄瓶をひょいと持ち上げて雅文はゆっくりと鉄瓶を回したり、蓋を開け閉めしながら査定をした。

『この鉄瓶、良さそうだな。丈夫そうだし、色艶も美しい』

【そうですね。とても良い鉄瓶だわ】

鉄瓶は寝惚け眼で2人を眺めた。新婚のような初々しさもありつつ、どことなく2人の間には距離感があるような感じがした。

購入されて家に持ち帰られた鉄瓶は、家の中で待ち構えてた女の子に抱き抱えられた。

その子はちゃぶ台の上に鉄瓶を置いて、丁寧に巻かれていた新聞紙を取り除いて息をさせてくれた。

鉄瓶の姿があらわになって、とき子は不思議そうにそれを見つめた。その後少しだけ笑みを見せてこう言った。

『綺麗』

                       ◇

とき子が海を見なくなって、3年。

とき子は自分の時間軸がおかしくなってしまったような気持ちになっていた。もう何十年も見てなかったような、そんな気がしていた。まだ18年しか生きていないのに。

潮の匂いがきつくなってきた頃、水平線がうっすらと、とき子の視界に入ってきた。

今日の海は記憶の海とはぜんぜん違っていた。真っ青な青空に、子供が描いたような入道雲がぼうっと浮かんでいた。その下でエメラルドブルーの海が優しく波打っていた。

【綺麗】

とき子が言葉を発する前に鉄瓶がそう呟いた。

『そうですね』

とき子は鉄瓶を片手に持ったまま砂浜まで降りていった。

とき子は砂浜に体育座りをして、膝の上に鉄瓶を乗っけた。

やわらかい波の音が風に乗って、とき子と鉄瓶を包んでいく。


『鉄瓶さん、母は私が6歳の時に私の母になったんです。私は昔からあまり感情が上手く出せなくて、きっと母も大変だったと思います』

鉄瓶はとき子の膝の上でじっと聞いていた。

『父も私もよく似ているんです。その人を好きなのに、上手く伝える術を持っていなくて結局誤解をさせてしまうんです。父も本当は母をすごく愛していたんだと思います。愛してるのに上手く伝えられないというのは、本当にもどかしいですね』

波の音が、2人の間に流れていく。

『母は、私の事をどう思ってたんでしょうか』

鉄瓶は海を見ながら言った。

【鈴子はいつも不安だったみたい。愛しているのに、大事にしているのに、近寄ってもどんどん遠くなるようだったって。きっと鈴子もうまく伝えることが苦手だったのかもしれないわね】

『もっと話をしてくれれば良かったのに』


(愛しているから、大事だから、少しの切欠で全てが崩れてしまうのが怖かったの)


『え?』

とき子は鉄瓶を見た。一瞬母の声が聞こえた気がした。

【せめて、最期くらいはちゃんと話をしたかったわよね】

鉄瓶はまた普通の声に戻っていた。

『やはり言葉を交わさないといけなかったんです。たとえ上手く伝えられなくても、きちんと話をするべきでした』

強めの風が2人の間に割って入る。

『口で上手く伝えられないのでしたら、手紙にしたためるとかして___あ!』

とき子はガバッと立ち上がった。

鉄瓶は、自分の体が急に大きく動いたので目眩がしてしまった。

【い、いきなりどうしたのよ?】

『鉄瓶さん。思い出したのです、私。』

そう言って、とき子は鉄瓶を掴んだまま家路へと駆けだした。





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