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できないのと知らないのは違う

書きたいことを下書きに溜め込んで、
気づいたら数日空いていたが
気にしないでおくことにする。


毎日書くぞ!と決めて
毎日続かなかった時に
あ〜あ…と、謎の落胆をして
やめる、という選択をすることをやめたのだ。


毎日書く気はあるが
そうならない日もあるから
できるだけ続けて書くよ。が今の私の本心といえよう。


完璧主義を貫いたって
どうせいいことなどない。
それって完璧主義なのではなく、
ただ自分の思った通りにしたいだけの支配欲だったりするし
世の中に完璧なんて存在しない。

視点を変えれば穴だらけ。
そんなことに気づいてからは
最善を尽くすことだけに集中することにしている。



前置きが長くなったが
こんな記事を見つけた。




読めないのか?まだ読む力がついてないのか?


似てるようで全然違う。


先日びんちゃんと
ごんぎつねの最後について語り合ったばかりだったが
それ以前の話のようだ。


大雑把に「読めない」と言っているけれど




「読めない」というのはそもそも、
いろんな段階を踏んで学んだけど
能力的にできない can not のことを
いうのではなかろうか?
つまり能力的に無理なことを言うのでは?


この場合は違う気がする。
と言うか違和感しか湧いてこない。


単純に知らないからできないということは
想定外なんだろうか?


ちなみに英語話せますか?は

Do you speak English?

なのに、なぜか

Can you Speak English?

と聞いちゃう日本人への違和感と似てるかも。



単純に
「まだ」読む力が身についてないだけ


なんじゃないの?と
この記事を見てそう感じた。
できない、と烙印を押すにはものすごく
時期尚早では???



私はこのレッテルで幼い頃から
随分と嫌な思いをしてきた。



私は幼い頃から運動神経が良くない。
ボールも投げれない、ドリブルもできない
手と足がおかしな動きをする。



ひたすらそのことを隠してきたが
夫にはすぐにバレた。


しかし夫が
膝の使い方、力の入れかた
体の動かし方を力学的に説明してくれると
私はこれまで全然できなかった体の動きができるようになった

という経験を持ち合わせている。



私は運動ができなかったのではなく
運動するセンスがなかったのではなく
運動に最適な体の動きを
知らなかっただけだったのだ。



まさに
できなかったのではなく
知らなかっただけ。



できないのと知らないのは全く違う。



記事の中にも書かれていたが
時代背景や家族構成などが影響しているとすれば



本当は知っていて欲しいことを知らずにきてしまって
結果、行間を読む習慣がない、
行間をどう読むのかがわからない。
ということになっているだけなような気がした。


端的につまんで
この子は国語ができない、行間が読めない
と嘆くのはいかがなものだろうかね。と思う。


 母親の葬儀の準備で「大きな鍋で何かがぐずぐず煮えていた」というくだりがある。これはもちろん、葬儀の参列者に兵十が食べ物をふるまう準備している描写と読み取れる。  


ところが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と尋ねると、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「昔は墓がなかったので、死んだ人を燃やす代わりにお湯で煮て骨にしている」などと複数名の子が真面目に答えていた─という。  


文部科学省は、近年の日本社会で人の心などが荒廃している理由について、人間として持つべき感性・情緒を理解する力の欠如を指摘している。情緒力とは「他人の痛みを自分の痛みとして感じる力」「美的感性」「懐かしさ」「家族愛」「郷土愛」「名誉や恥」といったもので、いわば人間の土台となる教養や価値観、感性につながるものだ。

記事から抜粋〜


いや、葬儀場のみの葬儀しか体験してなかったら
食事といえば葬儀場が用意した御斎、
仕出と書かれたできたものを食べる、みたいなことしか
きっと想像できない。


まさか大鍋で
ご近所さんに食事を振る舞うなんてことは
想像もできないと思う。


自宅葬を経験していれば、
大鍋で何かを作るとか、
そういうことも想像できただろうと思う。


それを

ところが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と尋ねると、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「昔は墓がなかったので、死んだ人を燃やす代わりにお湯で煮て骨にしている」などと複数名の子が真面目に答えていた─という。  

こう尋ねたらびっくりする答えが返ってきた!
と嘆いている。


いや、おかしくね?


私からするとすげー想像力だ!
死体は腐るから、消毒しなきゃ!って思ったのかな?とか
骨にすることは知ってるから
それをどうやってやるのか?をすごく考えたんだなとか思うし


もし自分がこう質問して
こう返ってきたとしたら
まず自分を振り返る。


あ、知らないのかも。
教える人がいなかったのかも。
じゃ、教えてあげなきゃな。ともおもう。



この手の嘆きは
普段の人間関係にも言えると思う。



さて、私は今何を思っているでしょう?



恋人に、自分が何を思っているか
何をして欲しいかをこれぽっちのヒントも渡さずに
好きならわかるはずという
なぞの期待を寄せて
間違えたと言って「愛されてない」と嘆く。



相手もテレパシーも使えないのに応えようとする。



おかしいだろ。



知らんことはどんなに考えても出てこないのだ。


なのに、知らないのではなく
できないとレッテルを貼る。



どういうことだろうか??


さらには

文部科学省は、近年の日本社会で人の心などが荒廃している理由について、人間として持つべき感性・情緒を理解する力の欠如を指摘している。情緒力とは「他人の痛みを自分の痛みとして感じる力」「美的感性」「懐かしさ」「家族愛」「郷土愛」「名誉や恥」といったもので、いわば人間の土台となる教養や価値観、感性につながるものだ。


こんなことまで言ってる〜


いや、知らないだけだと思うけど。




そういえばこんなこともあったな。
現代の子供は、切り身が泳いでいると思っている。
みたいなこともそうだけど



海に連れて行ったんか?と訊きたい。
魚が泳いでるところを見せたんか?と訊きたい。


泳いでる魚をみて
捕まえて、捌いて切り身にしたところ見せたんか?
と思う。


そりゃわかるわけなかろうが。とおもう。


そういう、大人が見せるべきことを見せずに
できない、おかしいというのは
愚の骨頂やな。と鼻で笑うしかない。



そうやって、
知らないことをできないとレッテルを貼られ
知らないことを知らないといえずに
知らないことが罪なような錯覚を覚え


知る機会を得られないまま
大人になり、
知らないからできないだけなのに
あいつはできないとレッテルを貼られている人が
実に多いように思う。



いろんな経験の点を線に繋げられない残念な人も
もちろん世の中にはいるが
まだまだ可能性が無限大の子供を捕まえて


できない


と一言で片付けるのはいささか残酷な気がする。



じゃ、どうしたら
この


文部科学省は、近年の日本社会で人の心などが荒廃している理由について、人間として持つべき感性・情緒を理解する力の欠如を指摘している。情緒力とは「他人の痛みを自分の痛みとして感じる力」「美的感性」「懐かしさ」「家族愛」「郷土愛」「名誉や恥」といったもので、いわば人間の土台となる教養や価値観、感性につながるものだ。


が具現化できるのか?を考えるのが
私たち大人のやることだと思うのだが。



とはいえ。その大人も創造性を育ててこずに
失敗も恐れ、人に聞くことを極端に嫌がり
できるできないで優劣をつけてきたのだから
まぁ仕方がないといえば仕方がない。



もし子供が突拍子も無いことを言ったと思ったら


どうしてそう思ったの??
どんなことからそれを思いついたの?とか
発想の根っこに興味を持てばいいのにな
と子供のいない私はそんなことを思ったりしている。


できないのと知らないのは全然違うから
大人の私たちでもこれはしっかりと
念頭に置いて人と付き合っていかなきゃなと
思ったりしてる。



何回も言うけど
できないことと、知らないことは
全然違うから!


#ニュースからの学び


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