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舞妓はんはケチなのか?

私が初めて京都に行ったのは
中学3年生の時の修学旅行だった。


修学旅行のことはよく覚えてなくて
つれて行かれるがまま
京都の名所を回った
と言う印象しかない。


それよりも
夜になるとなぜか怖い話を
同じ部屋の女子たちがしだすので
それを耳に入れないように
布団をかぶって必死で
早寝をしたことだけは覚えている。


清水寺で凶をひいて
先生を始め、周りにいた子たちを
凍らせたことと
夜の怖い話タイムを必死で
拒絶したことだけが
私の修学旅行の思い出である。


そんな感じで
京都に対する情報がまるで
自分の脳内に刻まれてなかったので
いつか京都をしっかり記憶に刻みたい
京都に行きたいと切に願っていた。


そしてそのタイミングは
唐突に訪れた。


私は京都に行くことにした。
急に思い立って、
時間もお金も余裕ができ
えいやっと京都に行くことにしたのだ。


ちょうど何年か前の
7月の今頃だったと思う
祇園祭のシーズンで
京都はとても賑やかだった。


中学校3年生以来の京都は
実に素晴らしかった。


街並みの色が整っていて
落ち着いていて
カラフルなコンビニの色でさえも
京都に敬服しているように見えた。


名所だけでなく
ブラタモリでも行かないようなところも
行ったりもして
自分なりの京都を楽しんだりした。


その中でも特に祇園は素晴らしかった。


名所ではない京都も楽しかったが
私の中にある京都をギュッと
濃縮還元したような祇園のその景観は
口の中と胸の中が
ギュッと甘酸っぱくなるような
なんとも言えない陶酔した気持ちになった。



パンプスでは
多分歩きにくいだろうと思われる石畳も
夕暮れにうっすらと明るくなる街頭も
そよそよと風になぐ柳も
全てが私にとって京都そのものだった。


目に入ってくる情報が
目の奥でぱあぁっと花開くように
私の脳の隅っこを刺激して
京都を忘れないようにとさせているようだった。


うっとりと
その情景に眼福にあずかっていたとき
唐突にその時は訪れた。


祇園の町をポクポクと歩いていた
2人の舞妓さん。
ちょうどお仕事にいかれる途中だったのだろうか
私はその絵に書いたような風景にも
目を奪われていた時
観光客とも思われる人が舞妓さんに近づいていった。



写真を一緒に撮って欲しいと
言ってるようだった。


舞妓はんは先を急いでいたのか
わからないけれど
足を止めることなく
「すんまへん〜」といって
足早にそこを立ち去ろうとしていた。


その観光客は
捨て台詞のように舞妓はんに


「ケチっ」


と舞妓はんに聞こえるように
その場に響き渡るようにいった。


私はとてもショックだった。
しばらく動悸がしてその場から動けなかった。


なぜ私がショックを受けたのかはわからない。
だけど突風で何かが破壊されたように
さっきまでのあの心酔していた時が
私の中から消え去ってしまった。



私は考えた。


なぜケチなのか?
舞妓はんはいつも通り
いつものように生活しているだけなのに。


京都の人間は
プライバシーを犠牲にしてまでも
観光客に尽くすようにとでも??


舞妓はんは有名人でも
スターでもない。
写真を撮ることは
舞妓はんの仕事でもないし、義務でもない。


私の認識では風情の一部であるだけだと
思っていたが、


京都では舞妓はん
とメディアやらに洗脳された観光客が
当たり前のように
自分の期待に応えなかったからと
あんな言葉を吐いていたのに
ショックを受けたのかもしれない。


自分だけの都合を考える
その観光客に、一方的な価値観の押し付けを
目の当たりにしたその現場に
ショックを受けたのかわからないけれど
この舞妓はん事件は
後々私にかなり大きな影響を与えることになる。



余談だが、この「ケチ」
よく目の当たりにする。


私も時々言われることがある。



ちょっとくらいいいじゃない
ちょっとくらい教えて
ちょっとくらいちょうだい
ちょっとくらい。。。
ちょっとくらい。。。



膨大な情報を「ちょっと」にする技術が
どれほど凄いものなのかわかってない。


初心者に「ちょっと」を
与えるだけで満足させる技術をわかってない。
ちょっとには、プロのいろんなエッセンスが
詰まっているのだと
機会があれば力説することにしている。



もちろん、与える本人が
「ちょっとですがどうぞ」と
与える分には何も問題はないと思う。


が、もらう方が
クレクレ全開で自己都合だけを考えて
ケチなんていうラベルを貼るなんて
もう怒りを通り越して悲しみさえ感じる。


ずっと怒りを感じていたけれど
いつの頃からかこう考えるようになった。
多分クレクレさんも
「知らないだけ」なんだと思う。


無知であるが故
暴挙に出てしまうこともある。
もちろん私も無知ゆえに
とんでもないことをしでかしたことも
数えきれない。


ちょっとがどれだけ大変なことなのか
ちょっとがどれだけちょっとではないのか
ただ知らないだけなんだと思う。


ちょっとひいてみれば

舞妓はんはいつものルーティンをこなしていて
もしかしたら急いでいたかもしれないから
足を止めたくなかった。

観光客は自分の旅行を
いいものにしたかったから
ほんの1,2分いいじゃないかっと思った。

それらがただマッチしなかっただけの話だ。


きっと舞妓はんよりの思考だった私は
突然舞妓はんを悪人にした
観光客の言動にショックを受けたのだろうけど
少し時間をおいて考えると色々見えてきた。

この出来事から私は
イラっとした時や
ムカムカっと来たときほど
自分の何かに囚われているかもしれないと
考えるようにした。

もちろん感情に巻かれてしまうので
上手くいかないこともあるが
なるべく感情が動いたときほど
そうするように心がけている。


京都に住みたいと思っているほど
京都の街並みが好きなのだが
京都を思い出すたびに
ケチ事件も同時に記憶喚起するので
どうにか良い記憶を上塗りできないかと
また京都に行こうと密かに計画している。


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