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「ありのまま」の落とし穴

ありのままという単語が
いつの頃からか蔓延っているが
私はなんとなくこの言葉に違和感を感じて
仕方なかった。


ありのまま。。。


ってなんなん?


言いたいこと言う
好きなことする
好きな格好する

いいんだけど
ギョッとしちゃうこともある。


そんな時
ありのままって・・・
なんだかな。と感じる。


そもそもの話をすると
人間とは、実に自分に都合の良い解釈をする生き物で
私も例外ではない。


わからないとか
意味不明なことが
とにかくストレスになる生き物らしく
なんとかしてこれをどうにかしようとする。



それが、曲解であったり
解釈であったり
逃避(なかったことにするとか)とか
こじつけだったり
思い込みだったりするらしく。


アンコンシャスバイアス
っていう言葉でも表現できるかもしれぬ。



だから、ずっと自分を抑えつけて
我慢に我慢を重ねた人が
「ありのまま」を解釈した時と



普段から自由を楽しんでいるひとが
「ありのまま」を解釈したものとでは
随分と温度差があるように思う。



つまり持っている「ありのまま」の定義が異なるからだ。



ずっと自分を抑えつけてた人が
何か自己啓発的なものに触れて
自我を解放し、ありのままを手に入れた姿を
見かけたことがあるが


それ大丈夫?って思うことが多々あった。


これから好きなようにいきる!
言いたいことは言う!
誰の目も気にしない!
自由に生きるー!!!!



いや、いいんだけど。
いいんだけどね。



それ、見たくなかったな。とか
それ、聞きたくなかったな。とか
そんな心情になることがあって
モヤつくこともしばしば。


じゃ、見なきゃいいじゃない!とか
関わらなきゃいいじゃない!とか
そう言う見方もあるかもだけど


自分以外の人間が暮らしているところは
「社会」なんだから
社会にいる以上は「社会性」が必要になる。


例えばどこにも属してなくて
自分だけで生きてるなら
それでいいと思うけど


極論の例えだけど

私は私らしく。と服は着ない主義!
ありのままの私がこれ!

で全裸で伊勢丹には行かないだろう?
っておもう。まぁ止められるよね。


ありのままの自分でいることは大切だけど
どこでどのようにするか?は
非常に大事だよな。って
毎回側から見ててそう思う。



たまにSNSなんかでも
言いたいこと言う!っていって
目を覆いたくなるようなことを
発言している人もたまに遭遇する。


多様化の時代を生きているからこそ
このありのままを都合よく解釈して
そこにいる人たちを
困らせてるんじゃ
それは自分だけよしの自分勝手な世界観にならないだろうか。



私の解釈だけど
ありのままは
誰も侵入できない聖域みたいなところにいる私。
だから他人へのアピールは不要だし
自分がそう思っているのが大事で
自己信頼、自己需要ができていれば
ありのままはいつだって成立するんじゃないか
っておもう。


社会はあくまでも共有スペースだから
他人とシェアしてるわけだから
そこで自分の聖域を広げる必要はないよね
っていう


どうしても受け入れたくない物がある場合や
貫きたい物があるなら
それは自由にしたらいいけど
巻き込まれたくない人を巻き込むことは
しなくてもいいよね。と思う。
だから公共の場では
その「ありのまま」は大丈夫か?を
考えねばならない。

まぁ、マナーってやつだ。


本来あるべき姿の「ありのまま」は
自分と他者への配慮のもと成り立つ
優しい世界にあると私は思う。


まぁとはいえ。
人は間違うし、勘違いするし
大きく揺れて、振れて
だんだん真ん中に戻ってくる振り子みたいなもんだ。


自分を抑えつけてた人は
一気に真逆の極に振れて
解放して「ありのまま」になってしまうのは仕方がない
とも思う。


ありのまま。は
わがまま。ではないと思うんだが。


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