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私の存在は市場に想定されていない?と地味に心が殴られる。履けない靴が並ぶ靴屋さん

小学校から高校まで、そこまで障害者であることの弊害やいきづらさを感じずに(時に諦めながら)生活してきた。
ただ、私には行くのに毎回つらい場所があった。その場所では、毎回自分が「周囲とは違う存在だ」と指摘されるからだ。

街のシューズショップ。なんてことはない、どこにでもあるチェーン店。

ヒールが少しでもある靴はつまずくし、まともに歩けないので候補にもならない。
サンダルは、足に力が入らないのですぐ抜けてしまう。足が地面に擦れて痛い。コンバースなどの皆が履いている靴は足の形に合わず、意地で試しても指先が潰れてしまうし履きにくい。紐靴は履くのに時間がかかってしまうしすぐ脱げる。足を引きずるので、デザイン性より持久力や軽さがどうしても最優先になる。

何足も何足も試着する。履きにくい。履けない。鏡の前に立って何歩か歩く。すぐ足から靴が離れてしまう。
鏡に写る歪んだ私のからだ。フラフラ定まらない歩き方。その度に抜ける靴。力の入らない足の指先。
目で見て自分の姿が奇妙なことを明らかに理解する。体が「普通」を拒否している。その度に、幼いながら「私の存在が市場から想定されていないこと」が悔しかった。次々と靴を提案して、何とか合う靴を見つけようとする母や定員さんの優しさも、私の苛立ちと居たたまれなさを増すだけだった。
結局は、バリバリ音のするマジックテープの壮年向け運動シューズに落ち着く。妥協だが、田舎にはそれ以上の選択肢はなかった。そう思うしかなかった。

好きな靴を選んでも、すぐに穴が開いて買い換えに来なければならない。その度にまた少ない選択肢の中から"よりましな方"を選ぶ。お金と時間を使ってつらい思いをしに行く。

大学進学と共に都会に出て来て、足の形にあわせて半オーダーメイドで靴を作ってくれるお店を見つけた。デザイン性がいいとは必ずしも言えないが、当時履けなかったブーツも紐靴も履ける。年を重ねて、あのつらい思いはしなくて済むようになった。

自分が靴に選ばれる側でなく、むしろ私が、私の靴を選んでつくりだす側になることができている。靴屋のゴムの匂いは記憶と絡んでまだ苦手だが、その代わり私は革とクリームの匂いのする店にメンテナンスに向かう。

頑張った私の脚を、靴を、また違う形でいたわってあげに行ける。

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