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決めたことを引き受ける

母の三回忌が終わり、ホッとしている。

私と夫、夫の両親、ごくごく身内だけのこじんまりとした法事だったが、なごやかな時間を過ごせて良かったとおもう。
 
 
去年の一周忌のとき、今までの法事のやり方を変えてみた。
親族に集まってもらい、お寺での法要から会食までがセット。

私の経験してきた法事はだいたいそんな感じだったが、コロナ禍を言い訳に、多勢で集まるのを思い切ってやめた。
 
今となっては親も兄弟もいない私にとって、たまにしか会わない親族に一人一人声を掛けて集まってもらう段取りは、考えただけでキャパオーバー。
 
親族の中には、仲良くしているひともいたので悩んだけれど、誰かを呼んで誰かを呼ばないわけにはいかないし、法事をやらないからといって今後の付き合いがなくなる訳でもない。

 
負担を感じながら主催するくらいなら、家族だけで心を込めて供養したいと思い、決めた。
 
ちょうどコロナの影響で、ひとと集まるのを控えようとする世の空気に乗っかり、思い切って「内々でやります」と関係者に伝え、今に至る。

 
今年は三回忌。
一年を経ておもうことは、法事という大義名分がないと、親族と顔を合わせる機会はぱったり無くなるのだということ。
離れた場所に住んでいると特にそうだ。
わざわざ理由を付けて会おうとしないかぎり、会う機会はない。
付ける理由も、そうそう見当たらないものだ。
 
結果的に、自ら疎遠にしてしまったような。
 

 
だから正直、これで良かったのかとずっと悩んでいた。
母は本当は皆に来てほしかっただろうかと。
 
 
自分がラクをしたいばかりに、疎遠をまねいてしまったことへの後悔と、法事の主催者としての心理的負担がなかったことへのホッとする気持ちが、自分のなかで割り切れずに行ったり来たりしていた。
 
 
複雑な気持ちのまま当日をむかえたが、フタを開けてみれば、家族だけで行った法事はとても良かった。
 
集まるひとはほんの数人だったけど、終始リラックスして、お坊さんの読経や法話にも集中できたし、心を込めて母の供養ができたとおもう。
 

残された家族として、本来の法事の意味合いを全うできたかなと感じた。
 
 
 
自分で決めたことなのに、後悔と迷いでモヤモヤとしていたけれど、これでようやく手放せそうだ。
 
 
 

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