後悔
春になり、散歩に出た。
認知症の義母が乗る車椅子を押しながら、琵琶湖畔の遊歩道をゆっくり歩く。
心地よい風を浴びて、義母は静かに犬のぬいぐるみを撫でている。
「日向ぼっこですか?」不意に、紳士から声がかかった。
「私の母親は1月に逝ってしまいましてね。施設に入っていたから、コロナのせいでなかなか会えませんでした。私も母を連れ出して、こんな所を散歩させてやりたかったな、と見てて思いました。」とその紳士はお話された。
私は胸が張り裂けそうになった。
どんな状況であっても、後悔はするだろう。
私もいずれ、ああすれば良かった、こうすれば良かった、と思う日が来るのだろう。
ここに連れて来てあげれば喜んだだろうか?
これを食べさせてあげれば「美味しい」と言っただろうか?
そんな思いは、何年経っても想うだろう。
でも、それが、『故人を偲ぶ』ということではないのか?
あの紳士は後悔しているのではない。お母様を偲んでいるのだ。
きっとそうなのだ。
けれども、この考えが上手く言葉にできずに、紳士の話を聞くことしかできなかった。
紳士に寄り添った言葉が、何かかけられたら良かったのに、と私は今、それを後悔している。
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