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元教授、趣味の落語のはなしを少し(その1、枝雀さん)定年退職53日目

趣味の話を書こうと思います。といっても、それほど数多くはありませんが、少しずつでもご披露出来ればと思っています。まず今回からは、落語の話題です。特にこの20年ほど、落語に再び心を奪われています。寄席によく足を運びましたし、CDも大人買いをして楽しんできました。


そのきっかけは何だったのか、今振り返りながら書いているのですが、なかなか思い出せません。子供の頃は、テレビで「笑点」などを観る程度でした。趣味としての始まりは、大学生時代に深夜ラジオの「オールナイトニッポン」で、投稿された小噺を落語家の鶴光師匠が披露するコーナーを喜んで聴いてからかもしれません。覚えているのは、例えばこんなものですね、

 「悪の十字架」・・・「開くの、十時か?」

 「恐怖の味噌汁」・・・「今日、麩の味噌汁」

 「日本を食う話」・・・「じゃあ、パンでも食おうか(Japanでも食おうか)」

同様の小噺が数十個あったと記憶しており、思い出すだけでも懐かしく感じます。そして、深夜に耳にしたものを、翌日に友人たちに紹介するのが楽しみでした。大学時代、学部の4年間はテレビを買わずに過ごしていたので(追記参照)、夜はよく深夜ラジオを聴いていたのです。以前の投稿で、私は「中島みゆき」のファンだったという話をしましたが、彼女もこの深夜ラジオで知り、歌も聴くようになりました。


その後落語は時折テレビで観る程度でしたが、大学院に進学した頃、研究室の教授から落語の話を聞き、少し興味を持ち始めました。教授は桂米朝さんのファン(後援会に入っていたかもしれません)でした。米朝さんは当時、テレビの短い帯番組で多くのレストランの紹介をしていました。とても落ち着いた口調で紹介をされていたので、私は最初、彼をアナウンサーだと思っていました。しかしその時はまだ、それで落語を聞き始めようとは思いませんでした(のちに、私は米朝さんの大ファンになるのですが)。教授の話では、米朝さんの語り口が素晴らしく、授業での話し方のお手本としてとても勉強になるとのことでした。


私にとってのきっかけは、教授の話で米朝一門を知ることになったことです。その中で最初にファンになったのが桂枝雀さんでした。残念ながら、枝雀さんは60歳で亡くなられてしまいましたが、もしも生きていたらと思うと残念でなりません(タイトル写真は、枝雀さんの生誕七拾年記念で配られた(没後)手拭いの一部です)。いろいろな噺がありましたが、その中でも、「代書(屋)」、「宿替え(粗忽の釘)」、「愛宕山」が特に好きでした。彼は明るく奔放で元気な高座の一方で、落語を「緊張の緩和」と表現して、落語道を極めようとする修行僧のようなところもあり、素晴らしい落語家でした。残念でなりません。枝雀さんの落語CD全集を、よく寝る前に聴いていました。

没後10年、生誕七拾年記念で配られた手拭い(中身はタイトル写真)
代書、大好きな演題です


その全集の中には英語の落語もあり、それがまた面白かったです。枝雀さんは英語に熱心で「落語を英語にする」試みを始め、海外公演も何回も行っていたそうです。長生きして、さらに広めて欲しかったです。

枝雀さんの英語の落語


次回も落語の話題になりそうです。お楽しみに!


<追記> 当時、テレビを買ってしまうと長時間見てしまいそうだったので、我慢していました。そのおかげで、大学の学部時代はよく音楽を聴いたり本を読んだりする時間が取れて、良かったと思っています。テレビを見たい時は、友人の下宿にお菓子かビールを持って転がり込みました。下宿の隣にあった喫茶店でも、様々なスポーツのテレビ中継を楽しませていただきました。

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