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祖父母と太平洋戦争

昨日は、私たち夫婦、私の両親、母方の祖父母での食事会があった。
夫と母方の祖父母が会うのは初めて。
約束の時間に間に合わず焦ったが、食事会自体は楽しかった。夫も、朝から緊張していたが、だんだん緊張はほぐれて楽しめたらしい。

母方の祖母については、別の記事でも詳しく書いている。
自己紹介のときに、祖母は私との関係について、祖母と孫の関係であり、友だちのような関係でもある、と言っていた。なんだか嬉しかった。

食事会では、祖父母が太平洋戦争について多く語ったのが印象的だった。
この記事で、祖父母の語りを記録に残しておこうと思う。


祖父母と太平洋戦争


母方の祖父母は戦前生まれ。どちらも関西出身で、上流家庭の育ちである。
終戦のときに、祖父は小5で、祖母は小1。
同じ関西の上流家庭でも、その4学年の差が、とても大きいのだと祖父母は話していた。

祖父の語り

祖父は、戦時下の教育をかなり受けている。
先生は、日本は絶対に勝つ、と言っていたそうだ。祖父も信じていたらしい。
でも、上空にはB29がしょっちゅう飛んでいて、日本の飛行機はひとつもない、本当に勝てるのだろうか、とも思っていたらしい。

玉音放送も覚えているそうだ。それまでは天皇は神の存在。姿を見たことも声を聞いたこともなかったという。
玉音放送で、初めて天皇の声を聞いたが、雑音が大きくて、ほとんど聞き取れなかったそうだ。しかし、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という有名な部分だけは聞き取れて、今でも覚えていると話していた。

昭和天皇は偉かった、とも言っていた。
日本陸軍は一億玉砕の覚悟で本土決戦に挑むつもりだったが、昭和天皇が玉音放送によって戦争を終わらせたのだ、と。
戦後、昭和天皇の姿を見たこともあったらしい。あぁ、本当に人間なんだ、と思ったという。

なお、昨日は話していなかったが、祖父の家では、戦争に使われる道具も作っていた。
戦争で儲かっていたのである。
私が小学校高学年や中学生のときは、朝鮮戦争によって戦後の日本経済は回復したんだ、と朝鮮特需についてよく語っていた。

祖父の戦争に対する想いは一筋縄ではいかないのだろう。
戦争絶対反対、平和が一番、というような発言は聞いたことがない。

祖母の語り


一方の祖母は、小1の夏で終戦なので、戦時下の教育はほとんど受けていない。
小学生時代のほとんどは、青空教室で、墨塗りの教科書で勉強したという。
社会は、マッカーサー以後しか習わなかったらしい。

戦争体験としては、家に帰る途中で、アメリカの戦闘機に狙われた話をしていた。
家の玄関先までたどり着いたところで、戦闘機から金属片が飛んできたらしい。ちょうど玄関先に出てきてくれた祖母の姉が、危ないと思って祖母の手を引き、直撃を免れたそうだ。
もし当たっていたら、死んでいたかもしれない、と言っていた。

また、終戦の直前、疎開していたときには、大阪大空襲を遠くから見たそうだ。
大阪の街が炎に包まれている様子について、きれいだった、と祖母は語っていた。
祖父も、やはり疎開先で大阪大空襲の様子を遠くから見たらしい。でも、祖母の発言に対し、いやぁきれいとは違う、と言っていた。

祖母の家は、地主の分家である。
お金持ちの家だと思うが、戦争によって食べ物は減り、お腹をすかせていたという。
戦争によって儲かっていた祖父の家とは違う、と前に語っていた。

おわりに

祖父母の戦争体験を聞いて、改めて戦争は怖いと思った。
戦争は起きてほしくないが、様々な事情や思惑が重なり、起きてしまうこともあるのだろう。戦争で利益を得ようとしたり、実際に得たりする、国や人もいると思う。

いま、日本では戦争は起こっていない。
でも、戦争が起こっている国や地域もある。
戦争による身の危険を感じたことは、私はまだないのだが、対岸の火事ではないのかもしれない。

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