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事実と感性を分けて、過度の落ち込みと不安を防ぐ大切さ

「感性的な悩みをしないこと」

もう何年も前の就活で、あるベンチャー企業を訪問した際、上記の張り紙がしてあったのを覚えている。

「クヨクヨしないで結果を出せという事かなあ。分からんでもないがマッチョな会社だなあ。合わないかなあ」と思ったものだ。結局その会社は選考も受けなかった。

しかし、最近感性を元に他者の気持ちや状況の背景を「おもんばかり過ぎてしまい」不安になったり疲れてしまう事が増えた。繊細さは役に立つが毒にもなる。そして「感性的な悩みをしない」事も大事では無いかと思い直した。

「あの人が〇〇と言ったのは、今の△△の状況からして、□□と思っているからじゃないか。とするとマズイな」

上の例でいくと、あの人が〇〇と言ったのが事実で、△△の状況がある、というのも多分事実だろう。しかし□□はあくまで推測である。事実かもしれないが、間違いの可能性もある。
しかし感性は脳を一色に染め上げ、推測を事実と同レベルにしてしまい、不安を増させてしまう事がある。そういう時は大概、不安は事実から離れて行ってしまっている。

また、情報の質についても、レベル差があり、知り合いでも人によって信頼度が変わったり、同じ人でも得意不得意分野が分かれていたり、新聞や雑誌に書いてあったら比較的信頼できるだろうが媒体とジャンルにもよるし、ネットの匿名情報だと参考程度にはなるが信憑性がガクンと落ちるし……等、個々人が経験や社会常識を元に、より事実に近づけるよう、情報のレベル分けをしていくものだろう。時にそれは複雑なものとなる。

しかし感性はその時の感情により、ロマンチックな色付けを脳に対して行い、「感動できるから」ネットの匿名情報を新聞情報より優先してしまったりする。敢えて不安を煽るネット情報を優先してしまう事もあるだろう。「一旦冷静になるべきなのは分かるが気になって仕方ない」という気持ちは分からないでもない。

他にも起きてないことと起きたことを混合したり、失敗に対する他者の反応を過剰に見積もってしまったり、様々だろう。

感性は個々人の個性から来ており素敵なものだが、案外「こうあるべきだと世間の大多数は思っているはず」という推測も、感性の形成に寄与している気がする。

しかし長く生きるほど、案外「こうあるべき」の中でも自分ができない事が明らかになったりするし、周りを見ても「何故これくらいできない?」と思ってしまったりする。事実として多様性があり、誰もが凸凹を持っている。実際に持っているものを無理に平らにならすのは難しいし、止めた方がいいだろう。「自他ともに凸凹は平らにしなきゃ」と考える根拠が、不安にかられた感性から出た、良く分からないものだったりする。

とにかく事実として顕在化したものとそれ以外を分け、感性はより自身が気持ち良くなるために使えたらと思う。

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