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映画「ペンタゴン・ペーパーズ」感想~違和感やモヤモヤが世界を解き明かす鍵になる~

こんなことは無いだろうか? 

仕事が上手くいかないとか、注意されてばかりいる。そのうち「自分じゃ駄目なんじゃないか」と悩み始める。悶々としたあげく、仕事以外のきっかけや出会いにより、もう少し仕事を頑張ってみようと思えたり、または環境を変えてしまおうと思えたり、転機が訪れる。

上に書いた事は、少なくない人が経験しているんじゃないか。転機が来ることで、下手に自分ばかり責めたり、逆に全てを環境のせいにするのを止めて、環境と自分の違和について、物事の全体像と自分自身の特性を把握しながら、見つける事ができる。そして自然と次の一手が出てくる。

スピルバーグ監督作品「ペンタゴン・ペーパーズ」は、そんな作品に思えた。

ベトナム戦争の時の米国。マクナマラ国防長官が中心になり作成された極秘文書は、米国のベトナム介入の意義を揺るがす程の情報と分析が載っていた。極秘文書が『ニューヨーク・タイムズ』の一面に載るが、それは当局による一時差し止めを受ける事になる。大スクープをライバルに抜かれた『ワシントン・ポスト』は極秘情報を追う内に、ある真実を突き止める事になるが、それを報道するかを巡って、権力との関係、差し止めを受けた『ニューヨーク・タイムズ』以上の制裁を受ける可能性、投資家との関係等、何重もの葛藤や説得、介入の中、決断する事になる……

『ワシントン・ポスト』の報道陣が様々な策を打って真実を突き止めて行くスリリングさや、ライバル紙との競合や協力関係、政治家との「付き合い」等、一筋縄でいかない米国新聞業界の一面が見れたのは面白かった。(今はさすがに、当時ほど政治家と付き合う事は無いのではないか。日本では記者がしょっちゅう権力者と寿司を食うらしいが)
自由の国である米国にも、全体主義国家とはまた違った癒着があり、結果として、全体主義じみた政策に繋がる事があるのだ。

しかしである。報道ものとして興味深いし勉強になったのは確かだが、一番物語として重要なのは、夫が亡くなって、偶然『ワシントン・ポスト』のトップになった女性の決断である。男性である夫がトップになるのが普通で、それが誇らしいと思っていたのが、自分が「たまたま」トップになり、女性であるという事であらゆる発言や行動を軽んじられ、下に見られながらも、追い込まれた局面をチャンスに変え、重大な決断を下す事になる。

冒頭に、仕事が上手くいかない時に外へ転機を求める、という話を書いた。しかし、男性より控えめに、積極的に意見しない事を求められていた女性が、そう簡単に外へ転機を求められただろうか。存在を軽んじられる事へ苦痛と違和感を覚え、そこから一人決断を下し、その事によって周囲も、トップの意志の重さを知る。周囲の中でも特に女性は、より深く理解している。

孤独の中で思考を広げ、決断するのは容易では無い。

本作では国家を維持するための理論が、報道の自由を抑えようとする中で、国家維持という「当たり前」を突破するための言葉が紡がれるが、報道の自由も、結局は、男性権力の中で意見を軽んじられる「当たり前」の中、それでも一人の女性として、人間として、報道機関トップとして、一歩突き抜けた人の決断が無ければ、守られなかったのだ。戦争の欺瞞も暴かれなかったのだ。

現在も、ウクライナでのロシア侵略を受けて、既存の専門用語や報道を元に、小気味良く現状を分析し、批判できそうなものを叩く意見が多く流通しているし、社会にとっても受けが良いようだ。
悲惨な情報の濁流に傷付いたり、事態の複雑性を飲み込めず、報道に疲弊する私達のような「弱い心」は所詮、綺麗な分析や政治的判断からもっとも遠い、象に対しての蟻のようなものかもしれない。
しかし象が見下ろす景色よりも、蟻が見上げる景色の方が、全てを見渡せる事もある。「弱い心」は何故在るのか。そもそも本当に弱いのか。何がそうさせているのか。報道の濁流は何故起き、何を求めているのか。誰か同じような違和感や、違う観点を話し合える人はいないのか。

軽んじられそうな声。「蟻」の視点から出発したい。そしてできたら、同じようで細部は違う「弱さ」に耳を傾け、自分の事も伝えてみたい。

そんな事を最後に考えた映画だった。

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