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政治やデモへ、心に余裕があるから関わるのか、余裕がないから関わるのか

「社会問題に関わるのも大事ですが、まずは自分自身を癒してからじゃないといけないですよね」

社会問題とセルフケアを同時に語る貴重なコミュニティに、時折身を置くことがありますが、上のような発言と出会うことは少なくありません。

決して上の発言は間違ってはいません。日常の問題で疲れていたら社会問題をニュースやSNSで追う余裕は減りますし、逆に悲惨な出来事の情報に触れたら、更に心が削れてしまうでしょう。

それでも、海外との比較で気になってしまうことはあります。

例えば欧米でも、(日本より対策は進んでいるのかもしれませんが)メンタルヘルスの問題は深刻でしょうし、成功よりもセルフケアを大切にしようという考え方は若い世代を中心に広まっているように思えます。

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しかし、例えば現在進行形のパレスチナとイスラエルの出来事について、停戦を求めるデモが数十万単位で起きたりしています。(日本でも数千人規模で起きていますが)

また環境問題等、他の問題に対しての関わりも積極的です。「環境問題についての意見を聞いてくれない」から不安が悪化することもあるそうです。(もちろん日本にも同様の人はいるでしょうが)

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自分自身の中に、病んでしまうような弱い要素があるからこそ、遠い世界で弱い境遇を押し付けられている人にも、そして人間以外の、地球全体が抱えさせられている弱さにも共感し、思わず街頭に出てデモをしたりする。
そんな感覚が当たり前になってきているのかもしれません。

対して日本では、心身ともに余裕が無くなれば、一度周囲や社会と自らを切り離し、ただただ自分に集中していこうという人が多い気がします。

よく「欧米では自分は自分、他者は他者と、自分と周囲を分けるが、日本では自他の境界が未分解で、周囲に合わせてしまう自我の弱さがある」と言われますが、疲れた際、自分にとにかく集中しようとする最近の潮流は、上の定説にはまり切らないように思えます。

では何故日本で「自分のみに集中するセルフケア」が広まるのでしょうか。減少傾向とはいえ、まだ諸外国より長めの労働時間のせいだとか、教育のせいだとか色々言えそうですが、それらを含めて「1970~1980年代に、世界の中で、ほぼ日本だけが上手く行き過ぎ、その時の制度の残滓に、現代は苦しめられている」のが理由ではないでしょうか。

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1970年代以降、先進国や社会主義圏含め世界の多くが不況や停滞に苦しむ中、日本は地方へのインフラ拡充や補助金等で(選挙対策も大きかったとは言え)弱い立場に置かれがちな人々へも目配せし、雇用も生み出し、1980年代にはバブルも発生しました。
当時、諸外国の中で、日本を羨ましがる国も多かったのではないでしょうか。

真新しいインフラに囲まれ、色とりどりの消費財にも囲まれ、テレビを付ければバラエティが賑やかに「終わらない派手な日常」を演出し、各種の文化も、世界有数の表現力と資力を誇ったのでは無いでしょうか。(アニメや一部音楽等のコンテンツは今も世界で活躍していますね)

また豊かなだけ、限定的とは言え、各種文化コンテンツ等を通し、多種多様な世界への想像力を養う素地があったと思われます。

一方、社会保障等の充実の裏で、性別役割分業の強化(男女雇用機会均等法等の重要な動きがあったとは言え、いまだに日本は深刻なジェンダー格差に苦しんでいます)や、長時間労働の発生等、現在も抜け出し切れていない問題が本格化したのもこの時期でしょう。

神話や誇張も含め「日本らしさ」という見えない巨大な壁ができ、その内側にいれば、多くの人が豊かさを享受できた時代。
そんな「黄金時代」も1990年代に終わりを迎えます。

産業空洞化、低生産性、人口構成の変化、世界の変化への対応に遅れる産業構造や人権意識等、「日本らしさ」の内にあった床が徐々に崩れて人々が不安定化し、しかし「日本らしさ」の壁はなかなか崩れず、閉塞感ばかりが蔓延する時期が長く続きました。

そうなれば、とりあえず自分で自分を癒す(または守る)という人々が増えるのも自然な流れと言えます。

また「日本らしさ」の見えない壁は、例えば直接海外のニュースソースに触れて、その一部を日々の生活や人生選択に活かすといった「生身で壁の外側に触れる」動きを困難にしたと思います。

しかし、ここ5~10年で、徐々に日本も変わって来ているのかもしれません。生活苦、地震と原発事故、疑問の多い法案の強行採決等を背景に大規模なデモが起き、一部は政界の動きにも影響を与えました。

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コロナ突入後に否応なく社会と向き合うことを余儀なくされた人も多いでしょうし、ウクライナ戦争や中東情勢を受けてデモに行った人もいるかもしれません。(私も先日初めてパレスチナの犠牲者を追悼するデモに行きました)

(上に挙げた平成史によれば20年近く続く流れではあるみたいですが)海外に挑戦する人や、日本にいるが資産運用を通じて世界経済に繋がったり、外資系で働く人も徐々に増えているでしょう。(逆に日本経済の長期停滞にも関わらず日本に住む外国人も増え続けており、各地で共存への試みが模索されていることでしょう)

どうしても自分への癒しに集中せざるを得ず、自らを維持するための最低限の労働、人間関係で生きている人も大勢いると思われる一方で、かなり壊れてきた「日本らしさの壁」の隙間から、外の世界を感じて風通しの良さを享受しつつ、日々コツコツと、あらゆる「新しい日常」に向けて動いている人もまた、少しずつですが増えているのかもしれません。

私自身は、世界の多種多様な事象に目を向け、日本でも多種多様な変化やコミュニティに触れるという形で「新しい日常」に対応した、どこか日本にいながら外から移民して来たような自分を楽しむ一方、変化や先の読めなさを極度に嫌がる「日本らしさの壁」を内面化している自分もいて、胸の内で両者が矛盾と衝突を起こし、疲弊する時があります。

社会で大きな変化が起きる時、個々人の内面でもまた、言葉にしづらい葛藤が起きるのかもしれませんね。





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