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「聖書考古学」と聞いて何を思い浮かべられますか

 (この話は、私のこのところの一連の「学問シリーズ」のひとつですが、私の大学・大学院での専門は数学でありまして、このような、広い意味で神学のような学問は知らないわけです。しかもこの記事は、いままでにも私が書いてきたことと重なると思いますが、どうぞ、よろしければお付き合いくださいませ…)

 ここでは、山我哲雄(やまが・てつお)さんと、長谷川修一(はせがわ・しゅういち)さんという、2人の日本の聖書学者の話に基づいています。山我さんは個人的に話したことがあり、メールのやり取りもしており、著書もいくつか読んでいます。長谷川さんはまったく面識がなく、メールのやり取りをしたこともなく、個人的な知り合いではまったくありません。著書も『聖書考古学』(中公新書)というものを1冊、読んだだけです。まず、山我さんの思い出から書きますね。

 山我哲雄さんのような偉大な(ほんとうにとても偉大だそうですよ)先生と親しくしゃべる機会があったのは、同じ教会に所属していたことがあるからです。東京の教会でした。しかし、山我さんは、北星学園大学という札幌にある大学の先生であり、もちろん札幌から東京の教会に通うことは不可能です。ですから、上京した山我さんとおしゃべりする機会などは限られていました。とても朗らかで気安く話しやすい先生だったと思います。非常なクラシック音楽マニアであられ、私とももっぱらクラシック音楽のオタク話しかしたことはないと思います(聖書の話をしたことはありません)。札幌から東京に来るのも、おもに聴きたい演奏会があるから来られるのです。

 教会では、おもしろ山我エピソードがたくさん語られていました。若いころ、名曲喫茶でバイトをなさっていて、そこでクラシック音楽を覚えたらしいのです。聖餐式(せいさんしき。キリストのからだであるパンとぶどう酒をいただく儀式)の配餐(はいさん。聖餐式でパンを配ること)のときも、山我さんは、まるで喫茶店で飲み物を配るときのようだった、というのは当時の牧師さんの得意なお話でした。また、いろいろな名曲を口三味線で歌うのが特技のひとつだったと聞いています。その山我さんの「一芸」を1回も聴くことがなかったのは極めて残念です。クラシック音楽のなかでもとくにマーラーを愛しておられ、アルフォンス・ジルバーマン『グスタフ・マーラー事典』の翻訳もなさっています(当時、本屋さんで見ました。いまネットで調べました)。私が山我先生の本で読んだことのあるものを列挙しますと、以下のようになると思います。

 『一神教の起源』『キリスト教入門』(岩波ジュニア新書)『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 聖書』

 訳書として、『旧約聖書2 出エジプト記・レビ記』(岩波書店)、『旧約聖書3 民数記・申命記』(岩波書店)があります。これは翻訳といっても聖書そのものの翻訳です。いわゆる岩波訳聖書と言われるものです。山我さんの担当は「『出エジプト記』の一部の翻訳」「『レビ記』『民数記』の翻訳」でした。また、巻末に充実した解説を書いておられました。(マニアックな脱線です。私は岩波訳聖書も2回、通読した経験があります。岩波書店から出ている聖書は「関根正雄訳による旧約聖書の一部」「塚本虎二訳による新約聖書の一部」「この山我さんの翻訳を含むいわゆる岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳と新約聖書翻訳委員会訳)」「岩波文庫から文語訳聖書が全巻出ている」の4種だろうという気がします。マニアックな脱線おしまい。)

 私は司書をしていた時期があります。『一神教の起源』は、その時代に読んだ本です(その図書館にはなく、別の図書館で借りて読んだという記憶があります)。たくさんの誤字脱字がありました。とくに「てにをは」の脱字だけで二十か所はありました。とてもいい本でしたが、読み終わったのち、出版社に問い合わせようとしました。しかし、その出版社は、読者の声に耳を傾けようとしない出版社でした。大きな出版社で、そういうところはときどきあります。私は、山我先生自身に問い合わせる気になりました。北星学園大学にメールを送り、間もなく山我先生本人からの返信をいただきました。例の朗らかな調子はメールの文面からも感じられましたが、もちろん私と教会でしゃべったことは覚えておられませんでした。その本で最も大きな間違いは「エフタ」と「イエフ」という聖書に出て来る人物の名前をどちらかをどちらかに間違えていることでした(エフタとイエフはまったく異なる時代のまったく異なる人物です)。これについては刊行後まもなく長谷川修一さんの指摘があったとおっしゃっていましたが、その他の誤字脱字の指摘には感謝してくださいました。そして、しばらくして「2刷が出ることになりました。しかし、いただいた誤植指摘のメールを紛失してしまいました。もう一度、送っていただけないでしょうか」と言われ、もう一度、送りました。2刷から、『一神教の起源』はだいぶ誤植が減ったでしょう。『キリスト教入門』も誤植をはじめ間違いの指摘をしました。これは出版社にしたのですが、やはり著者の山我先生じきじきのメールが届きました。長谷川修一『聖書考古学』も少し誤植があって出版社に問い合わせたと思います。(脱線です。奥田知志『ユダよ、帰れ』は2刷が完成し、1冊を送ってくださるそうです。このような活動をしていて、「お礼に2刷を送ってくれる出版社」というのは極めてまれです。2冊目だと思います。最近のすさんだ心を癒やす明るい話題でした。脱線おしまいです。)『キリスト教入門』はいい本だと思います。岩波ジュニア新書というのは高校生くらいで読めることを目標としており、そしてこの山我先生の本は、極力、キリスト教の教義を押し付けて来ないように書かれています。最後にリンクをはりますね。

 山我さんがそのころ執筆なさっていたのは『列王記』(旧約聖書の一部。「上」と「下」があります)の注解(聖書の解説)でした。あれは刊行されたのでしょうか。

 さて、その東京の教会の時代「山我先生って、ときどき学生さんを連れて、イスラエルのほうへ発掘にいくらしいよ」ということを聞いていました。「発掘ってなにが出るのかな?」と思っていましたが、先述の長谷川修一『聖書考古学』を読んで「なるほどこういうことか」と思ったものです。

 多くの人が「聖書考古学」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、以下のような研究であるようです。すなわち、アララト山に行ってノアの箱舟の一部を見つけて来ようとするような研究です。旧約聖書の創世記8章4節に「第七の月の十七日に、箱舟はアララト山の上にとどまった」と書かれています(この記事の聖書の引用は聖書協会共同訳によっています。ここは岩波訳であったほうがいいのかもしれませんが、おゆるしくださいね)。つまり、「アララト山でノアの箱舟の一部が見つかった。このように聖書に書いてあることは考古学的にも裏付けられる」という研究ですね。しかし、実際に聖書考古学というのはどういう学問であるかというのは、その長谷川修一さんの本を読むとわかります。たとえば、ヨシュア記に描かれるエリコの占領物語があります(旧約聖書ヨシュア記6章1節以下)。これは、考古学的には、そのようなことがあった形跡はないそうです。もう少し別の例を出します。それよりもっと前、モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトを脱出する話があります。そのとき、エジプトを脱出した人数は「女と子どもは数に入れず、徒歩の男だけで約六十万人であった」(旧約聖書出エジプト記12章37節)と書かれています(ついこのあいだも書いた話で恐縮です)。女性と子ども入れたら軽く百万人を超えるでしょう。しかし、そこの地層(だいたいモーセの時代がいつの地層なのかも私にはわかりませんが)を掘っても、百万人が移動した形跡はないそうです。たとえば、ものを食べた形跡(骨が出てくるなど)、あるいは土器なども出土しないそうです。だからといって出エジプトがなかったと言えるわけではないにせよ、「たしかにあった」という証拠は出土していないそうです。長谷川さんは「モーセは実在の人物であるのかさえわからないのに高校の世界史の教科書に実在したかのように書いてあるのはよろしくない」という意味のことを書いておられたと思います。このように、聖書考古学というのは、調べれば調べるほど、聖書に書いてあることは本当ではないというのが明らかになっていく学問だったのです。

 発掘で大きい発見は、聖書そのものの出土です。これは、たとえばフタバスズキリュウという恐竜が子どもによって発見されたのにも似て、聖書の出土のようなものも、子どもなど、しろうとが偶然、発見することが多いようです。聖書に原本はありません。すべて写本(写し)です。われわれが手にする聖書は、たくさんの写しを見比べながら、どれが本来の文章であったかを調べるという気の遠くなるような作業をへてつくられているようです(あるとき、図書部長が、内村鑑三の紹介文を書くときに聖書の引用をしていたので、私が、新共同訳聖書の引用にしても、著作権は厳しいですよと申し上げたら、「オレが英語の聖書から翻訳するかな?」と言っていましたが、そんなわけで、聖書ひとつとってもそれだけの手間暇がかかっています。そんな調子では聖書は翻訳できないのです。第一その内村鑑三自身が聖書の翻訳には手を出していません。それくらいたいへんなことなのです)。その、重要な古代の写しが見つかることが稀にあります。それでときどき聖書の本文が変わったりします。

 それから、これは山我哲雄さんの本に出て来る例です。その本は手元にありませんので、記憶に頼ることをおゆるしください。聖書以外の書から、聖書の内容が、まんざらいい加減でもないことが明らかになることがあります。たとえば旧約聖書はイスラエル民族によるイスラエル民族の書です。たとえばイスラエルが他の民族と戦って負けたとします。それを、イスラエルの敵国(勝った側)から書いた碑文などが見つかったりするそうなのです。これで、聖書に書いてあることが、すべてが作り話ではないことがだいぶ明らかになったりする例があるようです。こういうのを「聖書外資料」というそうですが、そういう研究もあります。

 そして、上述のような考古学的な発掘もあります。かつて山我さんが学生さんを連れて行っていたような発掘、また、長谷川修一さんもその著書のなかで自分の発掘についても書いておられましたが、まあ、世の中にはいろいろな学問がありますね!あらゆることに「専門」はあるわけです。

 ちょっとここで視点を変えます。私は、『古事記』をすべて読んだことはありません。『日本書紀』はまったく読んだことがありません。ただ、学生寮の後輩で、実家が神社で、神主になる勉強をしていた学生がおり、彼が「うちの神社は古事記に出て来るんですよ!」と言い、私は彼の神社が出て来るところまで古事記を読んだ記憶があります。私が古事記を読んでおもしろいと思ったのは、日本の神話ですから、最初のほうで、海のなかに何かをたらしたものが島になるという神話で、一方で聖書の最初のほうは「天の下の水は一か所に集まり、乾いたところが現れよ」(旧約聖書創世記1章9節)と言っていることです。前者はいかにも海に囲まれた国の神話で、後者は大陸の神話である気がしています(私独自の思いですが、同じことを言っている人はいそうですね)。そして、古事記の最初のほうで、イザナギノミコトとイザナミノミコトが、オノコロ島を作る話が出て来ます。これは淡路島の近くの島か?ということは、淡路島の地層を調べて、ここが日本でいちばん古い地層であろう、とかいう研究をしている人もいるのかもしれません。まったくの想像ですが。聖書考古学があるなら、記紀の考古学もありそうです。しかし、これはまったくのしろうとの想像ですから、さきほどの、「聖書考古学という言葉を聞いた多くの人が想像するのは、アララト山へノアの箱舟の破片を探しに行く人のこと」と思うくらいの偏見である気がします。実際の記紀の考古学は、聖書考古学のように「調べれば調べるほど、古事記などに書かれていることは史実ではないことが明らかになっていく学問」かもしれませんね。わかりませんけどね。

 これは、『チ。』というマンガで描かれる「天動説、地動説とC教(キリスト教)」との関係の話とも関連し、また、きのう私が書きました、ダーウィンの進化論みたいなものと似ているかもしれません。学問的に真理を追究していくと、ついに宗教を超越するという例です。旧約聖書が、イスラエルの民が書いたイスラエルの歴史であって、無自覚的な自分びいきがあるようなものです。受験業界で言うと、仙台で東北大はかなりの名門であり、名古屋で名古屋大はかなりの名門であり、九州だと西南学院大はかなりの名門であるのに似ています(ごめんなさい、この3つが同列の現象だとは申しません。無自覚的な地元びいきの例として挙げました)。ですから、古事記にしても、日本民族が書いた日本の歴史ですから、かなりの日本びいきが入っていると考えられるのです。もちろん、聖書にいろいろな読みかたがあるように、古事記にもいろいろな読みかたがあります。司書の時代によく中高生に借りられていた本で、竹田恒泰『現代語古事記』がありました。これは、ここまで述べたような古事記の読みかたとはだいぶ違います。同様に、2018年の暮れに出版されて話題となった『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』も、ここまで挙げて来た聖書へのアプローチとはだいぶ違います。それでいいのだと思います。

 近所の大きな神社に、その神社の歴史が書いてあります。1900年前からあるそうです。しかしそのころ日本は弥生時代であって字はなかったはずですので、どこまで本当だかわかりません。同様に、モーセの時代にヘブライ語に文字はなかったので、モーセの同時代にモーセ五書が書かれたこともないだろうと考えられます(神様は石の板に十戒を書いているけれど、なんの字で書いたのか)。神道や仏教と違って、新約聖書の時代は、イエスの死後、かなり早い時点でいろいろな手紙や福音書が書かれていますが、それでもあれだけ伝説化しているのです。まして仏典や古事記のようなものが、どれだけ史実を反映しているのかは、はなはだ疑問だろうと思います。少なくとも私は、(ほんとうの専門は数学ですからこれも門外漢ですが、)聖書にだけは詳しいので、聖書にかんしてはこういうことが言えるということを申しました。やはり学問というものは結論ありきではなく、自分の想定していた結論と違う結論に到達することはよくあるのです。もしかしたら最初の聖書考古学は、ほんとうにアララト山へノアの箱舟を見つけに行くような研究だったかもしれません。こんなに細かく聖書が研究される理由も、おそらく(聖書のなかに真理を見つけるという)真理の追究が目的だったでしょう。しかし、それは裏切られています。私自身、「自分の予想と違った」という経験を、(数学の勉強、あるいは研究でですが)何度も味わっています。真理を追究するのが学問であり、「結論ありき」という姿勢は学問とは言えないと思います。

(↑律儀にお読みにならなくてだいじょうぶですが、山我哲雄さんの本『キリスト教入門』です。高校生には読めて、学術的で、宗教の押し付けはしてこない、良書です。)

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