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逆は必ずしも成り立ちませんよ

「逆は必ずしも成り立たない」。よく聞く言葉のようですが、意外と皆さん、逆が成り立つかのように日常生活を送っておられるように感じられますので、少し、記事を書こうと思いたちました。

 

よく出される例ですが「$${x}$$は犬であるならば、$${x}$$は動物である」というのは成り立つのですが(あらゆる犬は動物ですよね)、これの逆、つまり「$${x}$$は動物であるならば、$${x}$$は犬である」は成り立ちません。後者が成り立つと、世の中のあらゆる動物は、犬になってしまいます!このように明らかな例ならば多くの人が納得なさると思うのですが、以下に出すような例はいかがでしょうか。

 

「成績のいいやつは勉強している」。これは正しそうな命題です。しかし、この命題から「勉強すれば成績が良くなる」は導き出せません。それは「逆」だからであって、「逆は必ずしも成り立たない」からです。でも、この論法は学生時代にだいぶ先生から聞いたでしょう?

 

「東大生のノートは美しい」という命題が仮に正しかったとしても、「ノートを美しく書くと東大に受かる」という命題は導けないのも同様です。そもそもこういう詭弁を見抜けない人は東大に受からない気がしますけどね。(ごめんなさいね。)

 

新約聖書には「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の4つの福音書が収録されていますが、このうち最初の3つの福音書はイエスの母の名前を「マリア」と書きます。しかし、最後のヨハネによる福音書だけ、なぜかイエスの母の名前を書かず、たんに「イエスの母」とだけ書きます。これをもって「ヨハネによる福音書の著者はイエスの母の名前を知らなかったのだ」と結論することはできません。「(イエスの母の名をマリアと)書いているということは知っているのだ」ということは言えても、「知っているならばそれは必ず書くのだ」ということは「逆」であって、言えないからです。知っていても書かないことはあり得ますよね?

 

(もっとも私の知っているある友人は、「知っていることは必ず言う」「できることは必ずやってみせる」というタイプであることがだんだん分かって来ました。こういう輩は、「言わないということは知らないんだな」「やらないということはできないんだな」と想像できるわけです。)

 

中学の数学で習う「円周角の定理」や「三平方の定理」は逆が成り立ちます。三平方の定理を例に取りますと、この定理は2つのことを主張しております。つまり「直角三角形の3辺の長さを$${a,b,c}$$とする($${c}$$を斜辺の長さとする)と、$${a^2+b^2=c^2}$$が成り立つ」ということと「3つの正の実数$${a,b,c}$$があって$${a^2+b^2=c^2}$$が成り立つならば、$${a,b,c}$$を3辺の長さとする三角形は直角三角形になる($${c}$$が斜辺の長さ)」ということの2つです。これは逆が成り立つので、2つのことを主張している定理であるわけです。メネラウスの定理も、チェバの定理も逆が成り立ちます。正弦定理も余弦定理も逆が成り立ちます。こういうことばかり習っていると、世の中はあたかもすべて逆が成り立つかのように錯覚するようになるのではないかと思っております。

 

じつは、小学校の算数の教科書を見ていて、「暗黙のうちに逆が成り立つことを認めることを小学生に求めている」としか思えない記述にときどき出会うことがあります。典型的な例をひとつだけ挙げますね。「比例のグラフは原点を通る直線になる」ことをどうにかして言ったとします。(小学生は「原点」という言葉を知りませんし、負の数を知らないですが、そのへんはあまり気になさらなくてだいじょうぶです。)しかし、小学校の算数の教科書は、そのことを言った直後に「グラフが原点を通る直線になったら、その2つの量は比例している」ということを使うのです!こういうのをまさに「子どもだまし」というのではないですか。こうして「逆が成り立つ」ことを暗黙のうちに小学生に、空気を読ませるように納得させておいて、高校くらいで「逆は必ずしも成り立たない」ということを教えても、もう遅いのではないでしょうか。

 

中高の教員をやめさせられて、司書とか事務員をしていました。司書の時代に知り合った非常に賢い生徒さん(仮に「森くん」としましょう)に質問されたことがあります。すれ違いざまに聞かれた質問は「『⇒』という矢印を『こうなったらこうなる』という意味で授業に使う先生がいた。しかし『⇒』は論理の記号であって、授業の流れでそのような意味で使うのは不適切ではないか」というものでした。森くんの言う通りです。「⇒」の正しい使いかたは「$${x}$$は犬である⇒$${x}$$は動物である」というときに使うべきものです。私は「きみの言う通りだ。しかし『→』も写像を意味するのでそういう場面ではふさわしくない。高校までには接しないと思うが、そのような『こうなったらこうなる』という授業の流れで使うべき矢印は『⇝』だ」と答えました。のちに森くんは、本格的な質問に来ました。彼が理解していたのは、「数学の記述で、行と行のあいだを結んでいるものは『⇒』とか『⇔』とかだ」ということでした。「⇔」は、両方の矢印が成り立つ、つまり「逆が成り立つ」ケースを意味する矢印です。これほど賢い生徒さんは滅多に見ません。彼は「方程式など全部そうだし」とも言っていました。つまり、方程式を解いて「$${x=1,2}$$」となるのは、「$${x=1}$$と$${x=2}$$はその方程式を満たす」ということと「その方程式を満たす$${x}$$は、$${1}$$と$${2}$$ですべてである」ということの2つを主張していることをはっきり認識していたのです!少なくともその学校において、このくらい賢い生徒さんは稀でした。「医学部に行きたい」と言っていたので「なんか医者にしておくのはもったいないなあ」と言ったことを思い出します(お医者様へ。ごめんなさいね!)。「数学は論理でできているけど、世の中は論理ではなく空気で動いているので、論理ばかりでなく、じょうずに空気を読んで世の中を渡るすべも大切。でないと私のようになるよ」とも言ったことを思い出します。ほどなく森くんはある名門の大学に受かり、事務所へ報告に来てくれました。あまりにダメ教員すぎて高校3年生を任せてもらえなかった私に「合格の報告」に来る生徒さんは皆無でしたが、森くんが唯一です。あとから聞いてみると、森くんはその学年で突拍子もなくできる生徒さんだったということです。

 

そのようなわけで「犬はすべて動物だけど、動物のすべてが犬ではない」という当たり前のことから話をスタートさせましたが、この問題はなかなか根が深いことの一端は感じられましたでしょうか。小学校の算数の教科書は罪が深いと思いますね。

 

最後に、こういうことを一冊の本にした、とてもおもしろい本がありますので、紹介いたしますね。野崎昭弘『詭弁論理学』です。数年前に改版が出たときに図書館で借りて読みました。例によっていくつかの誤植を出版社に指摘するメールをお送りしました。そういうときは私は本の内容に対する積極的評価をメールに含めますが、担当のかたは「詭弁・強弁のまかりとおる世の中ですよね。私もそういうときは小さくなっています」というような返信をくださいました。著者の野崎さんは東大数学科の大先輩であるのみならず、おそらくクリスチャンですね(国際基督教大学教授は普通クリスチャンでないとなれないことからほぼ確実)。本の内容にも聖書などから取った例などが多数あります。よろしければお読みくださいね。本日は以上です。

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