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「問題解決型」は現代の呪縛か?

もともとは四半世紀前に読んだ深谷賢治(ふかや・けんじ)先生という国際的な数学者の先生の書かれたエッセイにまでさかのぼるのですが、その話は後回しにしまして、星くず算数・数学教室(星くず算数・数学教室 – 算数もしくは数学を趣味として学び直したい大人のための (hoshikuzumath.com))教室の理念「問題解決型というより伴走型」の話をいたしますね。

2016年のことです。教員だった最後の年度です。私は情報実習助手などやらされていました。そこでは「ビットという単位は何か」とか「プログラミングとは」など、有益な授業内容も多かったのですが、文科省が入れたと思われる「問題解決型学習」というものが入っていました。ある女性の情報の先生が「なかなかやせない」という「問題」について、「問題解決」を適用していました。正直言って、逃げ出したくなるような授業でした。

本来の「問題」とは、たとえば「環境問題」「食糧問題」のようなものを指すと思います。そのようなものに文科省の考える「問題解決型」など通用するまい。だいたい中高の「問題」は、答えから作られている問題ばかりで「解けるようになっている」のだ。

2年半前に、休職を始めたさい、障害者職業センターでも「問題を解決するためには」というテーマで支援員が話しました。「やはり問題解決なのだなあ」とそのときも思ったことを思い出します。

ついゆうべの例を挙げましょう。ある元アナウンサーのかたが、「しゃべるこつ」を話しておられました。いろいろおっしゃっていましたが、これもまた「問題解決」でした。いかにうまくしゃべって、うまく相手に伝えるか、という「問題」を「解決」しようとしていました。

深谷賢治先生のエッセイに戻ります。深谷先生は30代で京都大学教授になったと思われる国際的な数学者です。深谷先生の集中講義は東大時代に私も出ました。そのエッセイは四半世紀前のものでした。フェルマー予想は解決されていましたが、ポアンカレ予想は未解決でした。リーマン予想も未解決です。だんだん解決すべき問題が難しくなってきていると深谷先生は書きつつ、世の中が「世界規模で」「百年単位で」問題解決型にあることを憂いておられました。フィールズ賞の選考基準ですら、既存の問題の解決に脚光が当たる傾向にあると。

私は、じつはツイッターの世界の「数学大好き界隈」の皆さんとはなかなか共感できなかったりします。それの大きな原因のひとつとして、皆さん暗黙のうちに「問題解決型」にあるということがあります。ある人は、問題解決型とは、近代資本主義がまき散らした現代の呪縛ではないかと書かれました。そうかもしれません。私たちは、どうやってこの問題解決のワナから逃れられるのでしょうか。

星くず算数・数学教室では、問題解決をなるべく目指さないことにしたいと思っています。わからないことは一緒に考え、悩みましょう。小学校で習うようなシンプルなことでも、よく考えると奥が深いことはあります。安易に答えを出したくなるのは人情かもしれません。でも、問題解決型は、往々にして「上から目線」になりやすいです。「教えてやっている」感じですね。「伴走型」でありたいと思います。問題は解決しなくても、ともに考える姿勢でいたいです。「テストで受かる数学」ではなく「ともに考え、ともに悩む数学」。それは、文科省が安直に導入した「問題解決型学習」では決してないと思います。星くず算数・数学教室の、世のほとんどの数学教室との違いはここにあると思います。

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