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ヘンデルの「メサイア」は「宗教」というより「娯楽」

 いまから5年前(2017年)、事務員になって最初の年、ヘンデルの「メサイア」に合唱で参加しました。近所のキリスト教の女子校が、毎年、「メサイア演奏会」を開いているのです。私も教員の時代に何度もお誘いいただきましたが、忙しくて参加できず、この年に初参加したのでした。女子校ですからオーケストラはすべて女子で可能ですが、混声合唱は女子だけではできず、いつも男声を募集していました。そこで応募したのです。

 本日の記事で言いたいことを結論から言いますと、ヘンデルの「メサイア」というのは、「宗教」というより「娯楽」だということです。メサイアの歌詞は(ドイツ語とかではなく)英語で書かれており、イギリスで作曲され初演された音楽です(「メサイア」は「メシア(救い主、キリスト)」の英語読みです)。ここでなぜ聖書がテキストとして使われているのか、私には直感があります。日本で言えば「忠臣蔵」みたいなものなのです。「みんな知っているでしょ?」というストーリー。大石内蔵助、四十七士、討ち入り…。私も詳しく知っているわけではありませんが、それでも忠臣蔵のだいたいのあらすじは知っています。ヘンデルの時代の「みんなが知っているネタ」が「聖書」だったのです。「みなさん、この言葉、知っていますよね?この話、知っていますよね?」というお話です。それで、ジェネンズという人が聖書から言葉を抜粋して歌詞を作り、それにヘンデルが曲をつけたのです。そのキリスト教学校の演奏会では、ゲネプロ(本番直前の通し練習)の前に、宗教部長かと思われる先生による「お祈り」がありました。その学校ではあくまで「メサイア」は宗教曲という位置づけだったのです。しかし、これは歌ってみて「宗教」というより「娯楽」の音楽だと感じました。実際、作曲家の宮川彬良(みやがわ・あきら)氏がテレビ番組でメサイアの「ハレルヤ・コーラス」を弾きながら「これはエンターテインメントですね~」と言っていたのを思い出します。私も「メサイア」は娯楽の音楽だと思います。日本人が「忠臣蔵」のドラマを好むのと同様です。

 たとえばオリヴィエ・メシアンという20世紀のフランスの作曲家がいます。彼は「音に色が見える」という共感覚を持っていました。また、彼は熱心なカトリックの信者で、たとえば膨大なオルガン曲のほとんどは、聖書の言葉から作曲されています。たとえば「昇天」というオーケストラでも有名な曲の第1曲は「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を現してください」(新約聖書ヨハネによる福音書17章1節)という言葉が添えられています。私には音に色が見えないのと同様に、この聖書の言葉からその音楽は思いつきません。メシアンには「音楽と宗教」の共感覚もあったのではないかと思われるほどです。(オーケストラ曲にしてもオルガン曲にしても歌詞は伴わないわけです。音だけで宗教を表している。)こういうメシアンみたいな作曲家が本当の「宗教的作曲家」なのではないかという気がします。バッハはかなり内容に踏み込んだカンタータや受難曲を書いているように思えます。ヘンデルのメサイアはそれとは本質的に違うように私には感じられるのです。

 というわけで、ヘンデルの「メサイア」は、宗教音楽と位置付けるよりも、娯楽の要素の強い音楽ではないか、という、歌ってみての感想でした。

 だいたい言いたいことは書き終わったのですが、ここからは、その5年前の「唯一の合唱体験」に基づいた思い出話になります。ずっと私はオーケストラでフルート(とピッコロ)を吹いてきて、はじめて合唱をやったときの感想です。

 楽譜を購入しました。合唱は4パートしかありません。ソプラノ、アルト、テノール、バスです。にもかかわらず、毎週の合唱の指導者は、メサイアを覚えていませんでした。たった4パートですよ。オーケストラであれば、2管編成の木管楽器の分奏だけでも、フルート1番、フルート2番、オーボエ1番、オーボエ2番、クラリネット1番、クラリネット2番、ファゴット1番、ファゴット2番、というわけで、これだけで8パートあります!そして、これに、ホルン1番、ホルン2番、ホルン3番、ホルン4番、トランペット1番、トランペット2番、トロンボーン1番、トロンボーン2番、トロンボーン3番、テューバ、ティンパニを加えただけで、19パートあります!合唱はたった4パートなのに、なんで覚えられないの?毎年、これだけを指導しているのでしょ?と思いました。

 そして、私が休みをカウントして、自己責任で歌い始まると、だれも歌い始めないのです。皆さん自信がないらしい。何年も歌っているベテランが多いはずなのに。私はオーケストラの管楽器として、自分のパートは自分でカウントし、自己責任で出ていました。その感覚で合唱をやると、そういう目にあうのです。しかも、フルートやピッコロの休みは、何十小節にも及びますが、合唱の休みはほんの数小節です。しかも、私はテノールでしたが、パート譜に、他のパートもすべて載っているのです!それで、休みをカウントして入れないとは!少しだけ弦楽器の気持ちがわかりました。弦楽器もヴァイオリン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの5つのパートにしかわかれていませんからね(弦楽器の人を敵にまわしましたよね。ごめんなさいね!)。

 それから、「アン、ヒーシャルピューリー、ファハハハハハハハハハハ…」というのは、歌いづら過ぎる。こういうのがなければ、まだ「メサイア」は続けたのかもしれないです。でも、合唱というものは懲りました。「合唱は向いていない」ということがわかっただけでも収穫でした。翌年はハラスメント部長のハラスメントがエスカレートしましたし、本番のころには第2回ダウンをしていましたので、2018年は参加しなくて正解でした。1回でも参加したというのはいい経験だったと思います。

 ふだんの練習は合唱指揮者の先生の指導でした。とにかく長い作品なので、1回の練習で1、2曲を練習するのみでした。それで通して歌えるようになるはずがないじゃん、と思われるのですが、そう練習するよりなかったのです。女声は学生さんでしたから優秀でしたが、男声はそのようにエキストラのおじさんばかりでしたので、なお水準が低いのでした。たまにオーケストラと合わせる練習がありました。練習指揮者と本番指揮者は異なりました(それが普通ですか?私は、学生時代、本番指揮者が練習も見ていましたが、それが贅沢だったのでしょうか?)。本番指揮者は、何回かの練習と、ゲネプロ、本番だけです。とうてい、本番指揮者も全曲は練習できません。本番指揮者(牧村邦彦氏)は、とにかく「終わりよければすべてよし」の精神で、最後の「アーメン・コーラス」だけをしつこく練習しました。その「終わりよければすべてよし」が極端であったため、のちにその学校から送られてきた本番のCDを聴いたところ、異様に最後の合唱だけ、出来がよかったです。

 オーケストラは、フル編成でした。後述の通り、私には「ハレルヤ」のオーケストラの経験がありますが、本来のメサイアのオーケストラの編成は、弦楽器のほかに、オーボエ2、ファゴット2、トランペット2、ティンパニだけなのです。(トランペットには長いソロの曲があります。)それは、この演奏会の長い伝統とともにあると思うのですが、イギリスの伝統で、メサイアには大量の管楽器・打楽器を導入し、大編成の弦楽器とともに、大編成の合唱で歌う、ということになっています。この学校の演奏会の始まりは、世界に古楽の嵐の吹き荒れるはるか前です。そのような伝統に従って、大量に管楽器を補った楽譜で演奏していました。昔から、それはモーツァルトの編曲などにも代表されるように、たくさんの編曲が存在したのだと思われます。本番直前、なぞを解くため、そのオーケストラの管楽器の降り番部屋(楽屋)をたずね、彼女らに質問しました。私は合唱の一員ですがオーケストラでフルートをやっていたこと、また、メサイアのオリジナルにはフルートもホルンもトロンボーンもないこと、だれの編曲と書いてあるか?ということをたずねたわけです。彼女らは、「これはヘンデルの書いたメサイアのオリジナルではない」ということも知らないようでした。フルートのパート譜を見せてくれましたが、編曲者の名前は書いてありませんでした。さっぱりわかりません。いったい指揮者がどういうスコアを見ているのか、わかりませんでしたが、あとから音楽図書館で確認したところ、おおむねモーツァルト編によっているようでした。でもあちこち違うし。

 この学校のメサイア演奏会は、この地方の風物詩であり、だいたいアドベント(待降節)の始まる少し前くらいの時期に行われる演奏会でした。(そのオーケストラは「メサイア」しか演奏する機会がないのだろうか、かわいそうに、と言った私の友人がいます。真相はわかりません。)楽しみにしているお客さんもたくさんいるようでした。その地方の学生の演奏会としては高い入場料を取っていたと思います。半世紀以上の歴史のある演奏会でした(コロナ以降、どうなったか知りません)。私の本番のときは、地元のテレビが取材に来ました。合唱の一員でしたが、少しテレビに映りました。

 さて、このメサイアの中で最も有名な曲であると思われる「ハレルヤ・コーラス」ですが、これは30年以上前から、高校時代の経験があります。私の出身校は男子校ですが、近隣の女子校と合同で演奏会を行なっていたのです。それは、お互いの合唱部のステージ、お互いのオーケストラ部のステージ、そして合唱とオーケストラの共演ということになっていました。この合唱とオーケストラの共演は毎年、ヘンデルのメサイアのハレルヤのみと、ベートーヴェンの「第九」の第4楽章のみ、ということに決まっていました。合唱はもちろん、オーケストラも双方の学校のオーケストラの合同です。そして、合唱は、双方の学校の音楽選択生も出演しました。私は、芸術科目は音楽を選択していましたので、これらの曲は、合唱とオーケストラの両方の経験があります(本番はオーケストラで参加)。

 フルートの2番と1番の両方の経験がありますが、どう見ても、モーツァルトが書いたものとは思えないのです。モーツァルトが、こんな「きたない」2番フルートの楽譜を書くとは思えない。その演奏会も、長いこと同じプログラムの繰り返しで、伝統的に守られてきた楽譜があり、それはもはやどのパートがどの編曲であるのか、わからなくなっているのでした。ファゴットの楽譜を見たら、それはヘンデルの書いたものをそのまま使っているのか?と思うほど、書式が違いました。

 合唱のパートは、そういうわけで音楽の時間に習ったのです。テノールのパートは覚えました。30年前の当時、カセットテープの多重録音を使って、ハレルヤ・コーラスの全パートを歌って録音し、「ひとりハレルヤ」を作りました。これは友人たちに大変ウケました。この録音が残っていないのはくやしいです。ヘンデルの見事な作曲でした。当時はこれが宗教音楽であることはまったく知らず、歌詞の意味もちゃんと知らずに歌っていました。(だからこれは宗教音楽というより娯楽音楽であるというのがこの記事の言いたいことですが。)

 のちに、大人になって教会に通うようになり、その教会では、クリスマスやイースターなどの礼拝の最後には、会衆一同で「ハレルヤ・コーラス」を歌うのでした。コロナになってからどうなったか知りません。私はいつも大きな声で歌っていました。テノールしか歌えない理由もわかりました。楽器と同じです。高いほうは(がんばれば)いくらでも出せますが、低いほうは原理的にもう出ないのです。これは管楽器でも弦楽器でも同様です。大きくないと低い音は出ません。私の声帯がそうできているということでしょう。

 こういう経験があったので、5年前に、メサイア全曲にチャレンジしてみる気になったのですが、それは無謀でした。参加者も指導者もレヴェルが低すぎるし。空気が読めないから参加者どうしの雑談にもついていけないし。合唱は1回やって懲りました。しかし、「メサイア」って宗教というより娯楽ですからね。日本で言えば忠臣蔵みたいなものなのです。

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