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「学問に王道はない」

 (この記事は今度、中学生になる小学6年生を念頭において書きますが、それ以外の学生さんにもお読みいただけるように書きたいと思います。フルート奏者のランパルも、何千人も相手にしたリサイタルでも、ある特定の人のために吹いていたそうです。そんな感じです。)

 「学問に王道(おうどう)なし」という言葉をご存知でしょうか。ご存知ないかもしれませんね。「王道」というのは王の道ですが、学問に王の道はないのです。この言葉はユークリッドの「幾何学に王道なし」という言葉から来ているようですが、この話をしたいと思います。私は検索が苦手で、ときどき事実や定説と違ったことを書くかもしれませんので、そこはあまり私の話を信じないようになさってくださいね(笑)。でも、これから中学生になる皆さんへのメッセージを書きたいと思います。

 ユークリッドは紀元前3世紀ごろのギリシアの数学者のひとりです。イエス・キリストよりも前の時代の人であり、日本では弥生時代であって文字もなかった時代の人です。ギリシア名はエウクレイデスらしいですが、この人の名前は英語読みの「ユークリッド」で通っているので、以降「ユークリッド」と呼びます。ある一定年齢以上のかたはご存知ないかもしれませんが、10年くらい前から、普通科の高校生(私は高校は普通科しか知らないのです)は、数学で「ユークリッドの互除法」を習うため、そこで「ユークリッド」の名前を知っていると思います。予備校の先生のあいだでもおなじみの名前です。ユークリッドの最大の業績と言えるものは『原論』と言われる幾何学の著作です。私はユークリッドの『原論』を読んだことはありません。もしものちに教育者となることがわかっていれば読んだかもしれませんが、研究者になるつもりだった私は、数学史を含めて、そういう勉強をして来なかったのです。それで、不正確なことを書くかもしれませんよと前置きをしておりますが、『原論』の最大の特徴は、論理的に積み上げるように書かれた書物であることで、どの時代にもそういう著者はいたのです。同様の試みが20世紀のフランスでも起きており、それは「ブルバキ」という著者によるものです。やはり、論理的に積み上げるように書かれています。とはいえ、私はブルバキさえも読んだことがありませんので、原論もブルバキも読んだことのない私にこれを語る資格はないのかもしれませんが…。ブルバキはあとで少し触れます。とりあえず、ユークリッドの話をしますね。

 ある王様(ウィキペディアによればプトレマイオス1世)が、ユークリッドに幾何学を習っていたそうです。おそらくユークリッドは『原論』にもとづいて、極めて論理的に緻密な、厳格な教え方をしていたのでしょう。あるとき王様は、おそらく嫌になったのだと思いますが、もっと幾何学を理解するのに近道はないのか、と聞いたらしいのです。そこでユークリッドが答えたのが「王様、幾何学に王道はありません」というものだったのです。これが学問全体に広げられて「学問に王道なし」と言われるようになりました。このエピソードが本当のことであるのかどうかはあとで少し触れますが、とにかくこの言葉は有名になりました。いまは、誰でも口にするような格言になっています。

 この「学問に王道なし」という言葉は、私の実感でもあります。確かに、学問に王の道はないのです。しかし、私には11年に及ぶ中高の教員の経験があり、そこでは生徒も先生も、学問の「近道」を必死で探っていました。毎日のような朝の小テストの実施(月曜は数学、火曜は英語、水曜は国語という具合で、毎日のようにありました)、また、たくさん模擬試験を受け(受けさせ)、入試対策もたくさん打っていました。親御さんもそれを「手厚い」と思っているようでした。予備校も、いかにも「勉強にはこつがある」と思わせていました。しかし、私の経験によると、勉強にこつはないのです。ある英語の先生から「ひねってありますよね」という(この学校としては私に好意的な)言葉をかけていただいたことがあります。私が東大に受かったことがあることを知っていて、東大の英語の入試が「ひねってある」とお感じになっていたようです。しかし、私は一度もそのように感じたことはございません。私は塾に行っていません。浪人もしていないため、予備校の経験もありません。参考書も、学校で配られるもの(数学で言えば教科書傍用問題集のようなもの。4STEPみたいな)以外は使っていなかったと思います。チャート式も使っていなかった気がします。どの教科もそうです。教員になって、どれだけたくさんの生徒さんから「勉強のこつ」を聞かれたか、わかりません。もちろん東大生でも、勉強の「こつ」のようなものを掘り起こして入学してきたタイプはいます。東大の学友に、自分の勤めている学校の高校生のためにメッセージを書いてもらっていました。それは20人以上にのぼるメッセージになりました。その職場を辞めるときに(学校の貸与パソコンに入っていたので)すべて消えてしまいましたが、それは結局、いちばんは、私自身のためになりました。いろいろなことが書いてありましたが、ようするに学問にこつはなかったのです。近道はないのです。ユークリッドが王様に答えたように「学問に王道なし」だったのです。これは、私自身が、東大数理(東京大学大学院数理科学研究科)という、数学で言えば日本で最高峰の大学院に行って、少しだけですが数学を学び、また研究をした経験からも言えることです。たしかに、学問に王道はありません。私の専門は幾何学(図形を扱う学問)でしたが、まさにユークリッドの言う通りだと思います。幾何学に王道はなく、ひいては学問に王道はないのです。

 私はしばしば、教員の時代に、勉強のこつを聞いてくる生徒の皆さんに「学問に王道なし」と言いました。しかし、それを真に受ける人はいませんでした。「学問に王道なし」は使い古された格言であり、私はそれをオウム返ししているだけのように聞こえたのだと思います。とても残念ですが、しかし、この言葉には、私の実感がこもっていました。私は学部3年のころ微分形式を学び、「接空間の双対空間とはなにか」図書館で何時間も考えたものです。あるいは、ニールセン=サーストン理論を、ファティ=ローデンバック=ポエナルによる基本的な文献で学びました。これはフランス語で書かれていました。第二外国語はドイツ語であった私はフランス語が読めず、また、グーグル翻訳などもない時代で、ひたすら寮の自習室で、フランス語の辞書を引きながら、必死で読んだものです。とにかく七転八倒して少しずつ数学の知識を蓄えていったのであり、学問に王道はないのでした。しかし、教員時代の生徒諸君は、これをただの「有名な格言のオウム返し」としか取らないのでした。

 少し話題を変えます。前にも書いたことで恐縮ですが、私は学生時代、小笠原諸島に3泊4日で行きました。小笠原丸(おがまる)という片道25時間かかる船に乗り、東京から南へ1,000キロある小笠原諸島の父島に行きました。3月でした。ホエールウォッチング(くじらを見ること)をしたい人も集まっていました。3月というのは、くじら(ザトウクジラ)が、小笠原で子育てをする時期らしいのでした。くじらは哺乳類であり、卵を産むのではなく、くじらがくじらを産むのでした。まず、くじらがどれほど大きいか、長さで示してくれた人がいます。巻き尺で説明してくれたと思います。そして、水平線の向こうに、かすかに波が動いているのを「あれはくじらではないか」と言っていました。それはとてもくじらなのか波なのかわからない程度でしたが、1時間くらいねばっても、それくらいのくじらしか見られないのでした。私はくじらを見に小笠原に来たのではありませんでしたし、そのときはそのときでした。

 私はユースホステルに泊まっていましたが、ある日、朝早く、6時くらいに目が覚めました。当時の私はいまのように睡眠障害がなく、薬を飲まずに寝付いており、普通の人のように7時間くらいの睡眠で足りていたのでした。そして、朝早く目覚めた私は、付近の、海に向かう崖のようなところに行きました。そこは崖であり、すぐ先は海でした。そこに、とてつもなく大きな、黒いものがいました。もう言葉に表せないくらい大きいのです。しばらく見ていましたが、これはもう一人、見ていた人がいました。おそらく研究者であり、双眼鏡のようなものでその大きな黒いものを観察していました。あとでその人に「さっきのあれはくじらですか」と聞きましたら「そうです」とおっしゃっていました。あれは、くじらだったのです。私は極めて間近で見ました。ものすごく大きかったです。さきほどの「海の波なのかどうかわからない」というのが標準的なホエールウォッチングであるなら、私はかなり運がよいです。のちに、教員になって、沖縄へ修学旅行の引率に行きましたが、そのときも、水平線の向こうの波が「くじらではないか」と騒いでいる教員がいました。教務部長のY教諭や、物理のG教諭らでした。私は関心が持てませんでした。なぜなら私はそうやって学生時代に、海の波どころか、目の前で大きなくじらを見たからでした。もう一回、くじらを見るチャンスはありました。おがまるで帰るとき、くじらの群れを見たのです。3月はくじらの子育ての時期ですから、家族だったのでしょう。何頭もくじらがおり、潮を吹いていました。先ほどのような「目の前」ではなかったものの、充分に近かったです。「くじらは潮を吹く」ということも実際に見ました。近くの親子連れが「くじらさんが『さようなら』と言っているよ」と言っていました。3泊4日でくじらを間近に2回も見た私はかなり運がよいでしょう。

 そこで、私の言う「くじらは大きい」という言葉は非常に重い意味を持ちます。なぜなら、実際に見て来た人の言葉だからであって、ほんとうにくじらというものはとてつもない大きさなのです。「くじらは大きい」という言葉は誰でも言える言葉でしょう。みんな知っていることです。しかし、実際に見て来た人の言葉は重いわけです。「学問に王道なし」も同様の言葉だと思います。

 もうひとつ、例を挙げます。ガガーリンという人をご存知でしょうか。かつて存在したソ連(ソビエト連邦)という国の宇宙飛行士です。いまウクライナとロシアの戦争の話題が連日、報道されていますが、ウクライナももともとソ連でした。さて、そのガガーリンという人は、はじめて宇宙から地球を見ました。いまの地球の写真はどこかの宇宙船が撮影したものなのか知りませんが、当時、ガガーリンは「宇宙から地球を見た」最初の人だったのだろうと思います(これも「おそらくそうだろう」という感じで書いています。私の言うことをあまり信用なさいませんように)。ガガーリンは「地球は青かった」と言いました。このガガーリンの「地球は青かった」という言葉はとても有名です。これも、私の「くじらは大きい」に似ていて、誰でも言えそうな言葉です。しかし、これがとてつもない重みを持った言葉だということは納得していただけるのではないかと思ってこのエピソードを書いています。実際に宇宙から地球を見た人の「地球は青かった」という言葉は重いのです。

 聖書に「人はパンだけで生きるものではない」(マタイによる福音書4章4節)という有名な言葉があります。「ごはんも食べます」という意味ではありません。ここで言う「パン」とは日本語の「ごはん」に似ていて、食べ物全般を指しています。つまり、人は食べ物だけで生きているのではないのです。この言葉をNPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志さんが引用するとき、それはとても重い言葉になります。なぜなら、奥田さんは、まさに食べ物のない人、住むところのない人をたくさん助けて来たからです。つまり、人は食べるものがなければ生きられません。それを大前提として、「人は食べ物だけで生きるものではない」というのは、すごく重い意味を持ちます。お金がたくさんあっても自殺した友人の話は何回か書きました。お金があったら助かるわけではないということです。とはいえお金がないと心もすさむのは確かですけど。私はいま、圧倒的にお金が足りません。(よかったらこの記事、サポートしてくださいね。)そこで、奥田さんのその聖書の引用は重いです。実感がこもっているからです。単に聖書を引用しただけではありません。

 そこで、ユークリッドの「学問に王道なし」に戻るわけですけど、これは私にとっても重い言葉です。私の実感です。学問にこつはないのです。七転八倒して身につけるしかありません。英語にしても、忘れては辞書を引く、ということの繰り返しです。(英語の記事は書きましたので、いつか、国語でも記事が書きたいですね。)「効率」とか「要領」ということとは縁がないです。算数や数学の問題を見ていると「いかに効率よく問題を解くか」に焦点を当てた問題がときどきあります。それのすべてが無駄だとは言いません。意味のある効率の追求もあります。しかし、根本的にはユークリッドの言う通り、学問に王道はないのです。これを聖書の言葉で「言葉が肉となった」(ヨハネによる福音書1章14節参照)と言うと思います。「学問に王道はない」というのは私のなかで「肉」です。ただ格言を繰り返しているだけではないのです。

 さきほど、ブルバキの話をいたしました。20世紀のフランスで、ユークリッドの原論みたいなことをやろうとした一連の著作です。ブルバキという人物がいたわけではありません。たくさんの数学者が「ブルバキ」という名前で執筆しました。先にも述べましたが、ユークリッド原論もブルバキも読んだことのない私に、これらについて詳しく語る資格はありません。しかし、同様に考えると、『原論』も、共同の著作ではないのか。ユークリッドって実在したのであろうか。それは気になるところです。「うさぎとかめ」の物語はご存知でしょうか。イソップ物語です。幼少のころの私は、イソップ物語のすべてをイソップがひとりで作ったわけではないと書いてあるのを見て、少なからずショックを受けたことを思い出します。それと同様ではないか。アラビアンナイト(千夜一夜物語)もシェヘラザードひとりで語ったとは思えない。旧約聖書の「箴言」も、ソロモンがひとりで書いたことになっていますが、おそらくそうではない。それどころか、旧約聖書の律法(創世記から申命記までの5書)は、すべてモーセが書いたと思われていたのです。それもあるまい。一休さんは実在したけれど、あんなに小坊主のころからとんちを発揮しまくっていたわけではないだろうし、水戸黄門も実在しましたけど、あんなに全国を歩き回ったわけではないです。それと同様ではないかと思って、この記事を書くにあたり、ユークリッドのウィキペディアだけ見ましたが、やはり『原論』は複数の著者がいて、ユークリッドというのは架空の名前だという説も紹介されていました。それを言ったら多くのことはそうなのであって、「『求めよ、さらば与えられん』と本当にキリストは言ったのか」「盲人バルティマイは実在したのか」「そもそも盲人の目が開く話は実際にあり得た話か」などと言い出すとキリがないです。学問の近道をたずねた王にユークリッドが「学問に王道はありません」と言った話もどこまで本当なのかはわかりません。しかし、この言葉そのものは本当だと思います。ちょうど、バルティマイが仮に実在の人物でなかったとしても、「人に助けを求めることの大切さ」という面では確かに本当だからです。

 というわけで、とくに中学生になられる皆さんには、学問には近道はないことを覚えておいていただければと思っております。要領の良さとか、効率の良さを追求する姿勢は学問からは遠いです。とはいえ、制限時間を設けられて、決められたテスト問題を解く訓練ばかりされていると、ついこのことを忘れがちになります。「いかにすばやく正解を出すか」ばかりに執着するのは本当の勉強からは遠い姿勢なのです。中学に入ったら、先生は「あっていればマル、間違っていればバツ」を打つだけになることが多いと思います。たくさん間違っていいのですよ。たくさんバツを打たれてもいいのです。そのために「テスト」というのですから。(「マイクテスト」とか「テストメール」とかいう言いかたをする通り、テストとは「試す」という意味であって、「本番ではない」のです。)間違っては考え直し、また間違っては考え直し、そうして七転八倒して見につくものが本当の学問です。私自身の実感でもあります。学問に王道はありません。これは単なる古代の格言の繰り返しではなく、私のなかで「肉」となっている言葉です。そのおつもりで中学からの勉強に臨んでくださいね。

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