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数学のセミナーと礼拝説教

 私は、きちんと修めたと言える学問は、数学だけですので、どうしても数学を例にとることしかできないことをおゆるしください。

 数学のセミナーで、もっとも重要視されていたのが、「明解」ということでした。どういうことかというと、たとえば、自分が考えたことならなおさらなのですが、たとえば、ひとの書いた論文なり本なりを紹介するときでも、あたかも自分で考えたかのように、論旨明解に話すことです。どうも「明解」という言葉以外で説明することが難しいので、だから「明解」という言い方をしていたと思うのですが、どうにか、私のつたない筆力で、「明解」の説明をしたいと思います。

 数学の論文は、細かいところまで厳密でなければならないので、基本となるアイデアが細かい技術的なところに埋もれている場合もありますが、言いたいことはシンプルである場合もあります。そうでない論文もあります。とにかく、ひとの論文を紹介する場合においても、あたかもその論文を自分で書いたがごとく、自分の言葉でしゃべれなければいけません。これは、よく考えてみると、数学だけに必要とされる能力ではなく、あらゆる分野のあらゆる面で、言えることのような気がしますが、少なくとも数学の世界では、そうでした。自分の言葉でしゃべれているかどうかを、いちばん見られていました。逆に、最もよくないセミナー発表は、論文の表面をなぞっているだけの発表でした。それは、厳しく指導が入りました。そういう発表は、聴いていてわかるものです。話している人が、ほんとうにわかって話しているのか、どうか。

 あまり、これ以上、数学の専門的な例を出すのはどうかと思われますので、高校の数学の話にしましょう。私が教師であった時代の話です。2015年のダウンののち、翌年は、医師が「猛獣」と呼ぶ、おそろしい数学教師とペアを組まされて、ガツガツにやられました。基本的には、「猛獣」が授業をし、私は後ろの席で聴いていたのですが、これって、実は、猛獣が学生で、私が指導教官であるという、真逆の状態とも言えるわけです。私には、猛獣が、どのくらい、数学を理解しているのか、手にとるようにわかりました。

 数列の授業でした。猛獣は、最初のうちは、鮮やかに授業をしていました。ちゃんと一話完結で、50分の授業におさめるのは、さすがベテランだな、と思って見ていました。しかし、回を重ねるごとに、彼の授業は「明解」でなくなっていきました。漸化式に入ったときに、少し感じました。この先生は、「漸化式」というものを、ほんとうには理解していないのではないだろうかと。そのことは、さらに次の回で明らかになりました。彼は、まったく漸化式を理解していませんでした。どうしてそんな教諭が、「立派な教師」として、通用するのか、みなさん、まったくわからないのではないかと思います。じつは、彼は、漸化式の「解き方」を教えることはできるのです。しかし、私が見ていて思ったのは、彼は、「なぜ漸化式というものを考える必要があったのか」とか、「そもそも、なんで漸化式というものが世の中に存在するのか」といったことは、まるで理解していないことが、手に取るようにわかったのです。セミナーというのはおそろしい。人前で話すということはおそろしい。

 彼は、漸化式の「解き方」については、私よりもはるかに詳しく教えていました。そういう教諭に限って、やたらテクニカルに教えたがるものです。「数学的帰納法」については、彼はまったく理解していませんでした。ひたすら、バツをくらわない答案の書き方だけ、教えていました。それでも、高校教師って、務まっちゃうんですね。(私には務まらなかったけど。)

 礼拝説教も同じなのです。「明解」な説教は、論旨がはっきりしています。説教に「論旨」というのは、おかしいかもしれませんが、とにかく、なにが言いたいか、はっきりわかる。どんなにネタ本として、各種注解書を読んでいてもいいです。ちゃんと、自分の言葉として、消化して話しているかどうか、なのです。明解な発表をする人は、間違うときも、明解に間違います。不明解な人って、そもそも間違っているのかどうかもあやふやでよくわからないのです。明解な説教をなさる先生のお話は、前と違うことを言っていれば、すぐにわかります。明解でない説教をなさる牧師先生のお話は、そもそもなにを言っているのか、わかりません。果たして日本語なのかどうかもあやしいくらい、なにも伝わってきません。

 私は、説教こそしませんが、こうして、執筆するなかで、数学を学んでいたときに学んだ、「明解」ということを大切にしています。論旨がはっきりしていること。もちろん、自分の言いたいことがはっきりしていなければ、明解な文章は書けません。失敗することもありますが、なるべく言いたいことのはっきりした文章を心がけています。ほどよい長さで、論旨のはっきりした、読みやすい文章。「一から十まで説明しないと気がすまない」という発達障害的な特徴が、プラスにはたらいている面もあるかもしれません。

 ちなみに、音楽もそうです。作曲家の意図したことをお客さんに届けるためには、たんに楽譜をなぞっているだけでは伝わりません。あたかも自分で作曲したかのごとく、「こう弾きたい(吹きたい)のだ!」という、目鼻のはっきりした演奏のほうが、かえって作曲家の意図は、お客さんに届くものです。作品への大胆な踏み込みを恐れてはいけません。楽譜忠実主義もいいのですが、それより、自分の言葉できちんと伝えられるほうがはるかに重要です。

 イエスの時代には、「聖書」といえば、旧約聖書しかありませんでした。そこから、神の言葉のエッセンスを読み取って、自分の言葉で民衆に伝えたイエスは、やはり傑出して「明解」な人物だったと言えるでしょう。聖書はこのことを、次のように表現しています。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1:22)。おそらく、律法学者は、みずからが権威なのではなく、律法(旧約聖書)を権威として、教えていたのでしょうね。みずからが権威だなんて、不遜な気もするかもしれませんが、しかし、たとえば数学のセミナーでも、必ずしも論文の通りでなくても、自分がわかりやすいと思った伝えかたで発表して、とがめる人はいませんでした。発表するときは、「みずからが権威」なのです。

 私は、その「猛獣」の授業を聴くことになる何年も前に、猛獣を相手に、「明解」の説明を試みたことがあります。どうしてもうまく伝わりませんでしたが、しばらくして、こちらの言いたいことが少しわかったらしい「猛獣」は、「その『明解』路線とやらは、やめるんだな」と言いました。私は、大学院では、明解な発表をすることで評価が高かったです。残念でしたが、高校の授業は、明解なのより、いかにテクニックを教えるか、というところに主眼があるようです。(しかしそれでは、学問ではないのですが。)

 パウロの聖書の引用が、また、よく言えば自由自在、悪く言えば恣意的です。パウロも、言いたいことがまず明確にあって、それにあわせて、自分の豊富な(旧約)聖書の知識を、自分の話のなかに、ちりばめてゆくのです。パウロによって、相当、旧約聖書はゆがめられた、という言い方もできるかもしれません。「男のために女が造られた」とか「女(エバ)はだまされた」とか言う言い方は、旧約聖書だけ読んでいるかた(ユダヤ人)には、さぞや野蛮にうつることでしょう。しかし、パウロは、言いたいことがあって一途に福音を宣べ伝えているのです。みなさん、もっとパウロを見習いましょうね。礼拝説教では、一字一句、みことばの解き明かしをするだなんて、いつからそうなったのか知りませんが、少なくともパウロはそのタイプではぜんぜんないですよ。

 以上、数学のセミナーと、礼拝説教の共通点でした。話している人の理解度がどれくらいか、聴いている人には、まるまるバレていますよ!

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