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オンライン礼拝・オンラインミサなど

 去年(2020年)の2月くらいから急にコロナが流行り出しまして、いろいろなものがオンラインになりました。テレワークやリモート会議なども当たり前になっています。キリスト教では、この1年半くらい、急速に「オンライン礼拝」や「オンラインミサ」などが当たり前になりました。機材と人材さえあれば、リモートで礼拝ができるのです。あまりに急な変化であったため、議論が百出しています。ここでは、私の見解を述べたいと思います。

 礼拝がオンラインになったことで出てきている議論は、およそ100年前に、「レコード」というものが現れたときに似ています。それまでは、音楽といえば生演奏が当たり前でした。レコードの出現で、どれだけ遠くの国の演奏でも聴けるようになり、また、寝っ転がって聴くこともでき、途中で止めることもでき、繰り返し聴くこともできるようになりました。当時は、「録音」というものに拒否反応を示した音楽家も少なからずいました。これは、礼拝とは生で体験するものであって、オンライン礼拝というものを認めたくないという人の存在と共通するものがあります。いっぽうで、「録音」という技術に可能性があることを認め、レコードに積極的だった音楽家もいました。どちらが悪いと言っているのではありません。議論の出かたが、いまのオンライン礼拝と、かつてのレコードで、似ていると言いたいだけです。オンライン礼拝も、地理的に遠い教会の礼拝でも見ることが出来、寝巻き姿で見ることも出来、時間差で見ることもできます。そして、レコードのほうにまた話を戻しますと、レコードはCDになったりiPodになったりしながら、いまはスマホで音楽が聴けます。しかし、もとをただせばレコードです。録音という技術です。そして、われわれにとって、スマホで音楽を聴くことは、ごく普通の日常となっており、かつ、生演奏がなくなったわけでもありません。みんな、生演奏のよさもわかっているのです。

 映画は私は詳しくありませんが、やはり、映画というものが出て来たばかりのころは、カメラの前で芝居をするのはどうもおかしいと思った役者さんもおられたようです。生の舞台しかなかった時代ですから、当然、そういうかたはいたでしょうね。しかし、現代は、映画も当たり前になった上で、生の舞台もちゃんとあり、さらに映画も、映画館で観るのもあり、DVDを借りて来て家で観るというのもあります。それぞれ共存しているのです。

 ここからなんとなく想像できるのは、オンライン礼拝もだいたいそういう道をたどるのではないか、ということです。おそらく、オンライン礼拝は当たり前になっていき、「それはにせものだ」という感覚もなくなっていくでしょう。一方で、生の礼拝がなくなることもない。やはり人と人が会う礼拝はかけがえがないからです。そういう道をたどる気がしてなりません。

 最後に、オンライン礼拝の現在について書きます。全国どこの教会でも見られることから、いわゆる「いい礼拝(牧師の話がおもしろいなど)」をしているところの「視聴率」が高く、そうでもないところはそうでもないという事態になっています。これは当然のことでしょう。また、教会というちょっと入りにくいところでも、動画ならば気楽に見られるという特徴もあります。私も、先日、まったく入ったことのないハリストス正教会の礼拝(礼拝とは言わないんですよね。ほんとうによくわかりません)を興味本位で見てみました。途中で退出しましたけど(途中退出ができるのもオンラインならでは)。「クリスチャンプレス」というサイトに、全国のオンライン礼拝のデータベースがあります(リンクがはれなくてすみません)が、ほんとうにたくさんのオンライン礼拝をやっている教会があります。今後は、オンライン法事や、オンラインお墓参り、オンライン神社参拝なども当たり前になってくる時代かと思います。これはコロナということに限らず、あまりにもお寺が遠くてお盆に墓参りできない人とかも多く、法事もみんな遠すぎて集まりにくいからです。そして、これも、「生の墓参り」はなくならないだろう、ということも想像できるわけです。

 ちょっと長めの記事になってしまい、すみませんでした。昨今、急に増えたオンライン礼拝と、それにまつわるみなさんの議論を見ていて私の思っていることを書きました。だいたい100年前のレコードと同じような議論だろうと思っています。

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