子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ
イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」(ルカによる福音書23:28-29)
私は、発達障害のために、幼少のころ、整理整頓などができない、忘れ物、なくし物をする、電気をつけっ放しにするという理由で、両親や教師から厳しく叱責され、自己評価が著しく低くなり、25歳のときに、重い二次障害たる精神障害を患い、いろいろなものを奪われました。そのうちの一つですが、EDになりました。それがもとで、のちに不妊治療をすることになりました。いまのように、不妊の情報がこんなに出回るようになる前でした。不妊の世界の出口のない苦しさを味わったわけですが、非常に幸運なことに、子どもは一人、授かりました。二人は授かりませんでした。
(でも、不妊の情報は、まだまだ知られていないと思います。避妊と同時に、不妊についても、義務教育で教えるべきだと思います。「望まない妊娠」も闇ですが、「望んでも妊娠しない」のも闇です。)
聖書の世界でも、不妊というのは、つらいこととして認識されています。まず、「子孫繁栄」が祝福とされている、ということがありますが、有名な例で、アブラハムとサラ夫妻がいます。あまり気がつかれていませんが、イサクとリベカも不妊に悩んでいます。アブラハムの次に有名な不妊カップルは、エルカナとハンナでしょうか。ハンナのようすを見ていますと、「子孫繁栄」というより、「わが子をこの手で抱きたい」という思いが強いように思います。エルカナの「このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるものではないか」(サムエル上1:8)は、エルカナとしてはやさしい言葉をかけたつもりかもしれませんが、ハンナにとっては、つらい言葉だったのではないか、とも思います。
日本の昔話でも、「桃太郎」では、子どものいないおじいさん、おばあさんのところに、桃から子どもが生まれる話ですし、そういう、子どものいない老夫婦に、奇跡のように子どもが授かる昔話は多いと思います。不妊というのは、昔から身近なテーマだったのです。
「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」(レビ記20:13)。旧約聖書の律法です。男が男のために書いているということを前提に読まねばなりませんが、ようするに同性愛の禁止です。これも、ようするに、「LGBTは生産性がない」という議論になると思います。つまり、ひどい話なのですが、それと比べると、本日の聖書の箇所は、非常に先進的です。「人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」。これは、十字架にかけられるために連行されるイエスのせりふですが、ほんとうに、そんな日が来るのでしょうか。
以上です。
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