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聖書に名前が載った人

 聖書を少し読んだことがあるかたはご存じだと思いますが、聖書には、イエス・キリストが、たくさんの病気や障害の人を癒やした話が出てきます。これはもう、うなるほどたくさん出てきます。しかし、癒やしてもらった人のなかで、名前が聖書に残っている人は意外と少ないのではないか。(私がよく出す)目の見えなかったバルティマイ。それくらいではないでしょうか。会堂司のヤイロも、娘を癒やしてもらっていて、名前が載っていますが。あとは、重い皮膚病の人であれ、38年間、起き上がれなかった人であれ、12年、出血の止まらなかった人であれ、名前は出てきません。じつは、イエスに癒やされた人で、はっきり名前が載っている人は、盲人バルティマイだけではないか?

 バルティマイが、極めてあつかましい人であったことも私は再三、書いています。ナザレのイエスが通ると聞いて声をあげ、叱られても黙らされようとしてもなお叫び、ついに読んでもらえると「先生、見えるようになりたいです!」と言った。とてつもなくあつかましい人物ですが、それゆえに彼はほんとうに見えるようになります。そして、そのあまりのあつかましさゆえに、彼は聖書に名前が載りました。マルコによる福音書の10章の46節から52節は、バルティマイが主役です。

 (私の書くことはすべてフィクションですよ。)私は最近、ある本に、名前が載りました。校正のお手伝いをしたので、あとがきの謝辞に名前が載ったのです。ほんの一瞬です。それですら、うれしいことです。ちゃんとISBNのついている、国会図書館にも入っている本に、私の名前は載っています。21年前に書いた修士論文を別とすると(それさえパブリッシュされていませんが)、いかなる形であれ本に名前が載る経験は初めてではないかと思いますが、驚くなかれ、バルティマイは、聖書に名前が載っています!しかも、繰り返しになりますが、マルコによる福音書の10章の46節から52節は、バルティマイの独壇場です!よっぽどあつかましい人だったに違いない。これ、「イエスさまが目の見えない人を見えるようにしたんですって。すごいですねえ」という話というよりも、「いかにバルティマイはあつかましかったか」の話だと私は思っています。新共同訳聖書のこの場面の表題「盲人バルティマイをいやす」というのは、正しくは「盲人バルティマイ、いやされる」と書くべきだと思っています(表題は聖書の本文ではなく、のちの人が「勝手に」つけたもの)。この物語の主役は、イエスというよりは、バルティマイだと思います。「ほんとうに小さくされた者とともに歩む」とお題目のように唱えるキリスト教の「偉い」人たちは、一度、この物語を、バルティマイの視線からお読みいただきたい。「盲人が道端に座って物乞いをしていた」と書いてあるだけで、「かわいそうな、手を差し伸べる人」だと思っている時点で上から目線ですからね!私はバルティマイのように視覚障害ではないけれど、発達障害で睡眠障害だからわかる、彼はあつかましくもイエスに叫んだのだ。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と。

 とにかくバルティマイは聖書に名前が載りました。イエスに癒やしてもらった人としてはおそらく唯一の人です。これはすごいことです!

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