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もうひとつの隣国〜ポーランドを旅して〜

はじめに

 3年前、コロナ前最後の中東欧旅行の終わりはポーランドだった。ワルシャワ・ショパン空港から飛び立った飛行機の窓から、「どうせまたすぐ近いうちに来るだろう」と呑気なことを考えていた。

ポーランド上空から かなりベラルーシに近いところだったと記憶している

 実際は「すぐ」と言うのにはあまりにも長い時間を要した。忌々しき感染症によって、国どころか家からすらまともに出ることが憚られるという時代が到来し、少し状況が改善して県境を跨ぐくらいはできるようになっても国境を越えることはまだまだ程遠かったものだ。

3年ぶりの出国はフィンエアーで ヘルシンキ経由からのモスクワへ

 幸いなことに、3年以上の時をかけてようやっとまともに出国ができるように状況が改善しつつある。私は真っ先にロシアに留学をした。今年の1月末のことである。
 一定期間以上ロシアに滞在する学生には基本的に何度でも出入国することができるマルチビザが移民局から発給される。私はただロシアに留まるだけではなく、ポーランドやハンガリーに飛ぶつもりでいた。特に前者については特に思い入れも深く、友人が留学しているということもあって実際に具体的な計画まで組み始めていた。実行予定は4〜5月、計画段階では2月半ば過ぎのことである。

厳冬のモスクワ クレムリンを臨む

 そして2月24日、何よりも不幸なことが起きた。ロシアによるウクライナに対する「特別軍事作戦」もとい、れっきとした侵略戦争である。ロシアも日本の外務省によって危険レベル3に指定されたことにより、開戦から2週間足らず、渡航からは1ヶ月半ほどで帰国となった。もちろんポーランドに行くことなどできる間もなく。

モスクワ 本当に美しい街だ

 帰国から2ヶ月半が経ち、ずっと考え続けていたことが沸点に達しようとしていた。それは「行くことができるうちに行かないといけない」ということだ。ベラルーシやロシアには当面行くことができないだろうし、ウクライナに至っては街が破壊されてしまっているのだ。ポーランドに弾が飛んでくる日は日本も無事ではないだろうが、それはそうとして何が起こるのか全くわからない世の中になってしまった。「またいつか来られるだろう」というのは全く通用しない。思い立ったらすぐに行動しなければいけない。今こそ、ポーランドに行かねば。
 もう2週間足らずで6月というある時、「6月1日発券分から燃油サーチャージが倍近く値上がりする」という知らせが飛び込んできた。その時直感的に「今しかない」と思い、一息で航空券を予約した。どうせ休学中の身、今行かねばいつ行くのだ。

ウクライナ リヴィウの街角から

 ポーランドを訪れるにあたってひとつ見ておきたかったのは今般の戦争の捉えられ方である。ごく少数ながら日本もウクライナ避難民を受け入れているが、そのような人々の多くがまず訪れるのが隣国・ポーランドだ。
 戦争前、特にウクライナ人のポーランドへの出稼ぎは顕著で、このことも一因としてポーランドのウクライナに対する感情は決して良いものばかりではなかった。しかし今は戦時中である。西部ウクライナに長く国境を接したこの国が、どのようにこの理不尽な戦争と避難民に接しているのかを可能な限り確かめたかったのだ。

 そして先にお伝えしておきたいのは、この記事は先述のロシア留学中の概要を記した拙稿『特殊作戦と平和』と対照的なものとなっている。ゆえに、まだお読みいただいていない方はぜひ一度目を通していただきたい。具体的な話は本記事の途中にも登場するが、ロシアとポーランドというどちらも同じウクライナの隣国において、戦争の姿とはそれぞれどのようなものであるのかを考察することが本記事の意義である。

ペテルブルクにて 氷上の「戦争反対」

首都・ワルシャワへ

旅立ち

  旅の始まりは成田から、ドバイ経由でエミレーツ航空にて。国際線需要は想像以上に戻ってきており、きっとガラガラだろうとタカを括っていたチェックインカウンターにはそれなりに長蛇の列ができていた。夜行便で横になれることを期待していた私には少し痛い誤算だったが、何より国際線需要が戻りつつあることは喜ばしいことである。
 カウンター前では行先の確認が行われており、時折税関職員がやってきて列から外れた人たちを別室に案内していた。おそらく、経済制裁の影響で輸出が極めて厳しく制限されているロシアに旅立つ人たちへの荷物検査だろう。

少しずつではあるが、成田のターミナルにも活気が戻りつつある

   飛行機は順調にドバイへと辿り着き、続いてワルシャワへと向かう飛行機に乗り継ぐ。離陸から3時間ほどでトルコ上空に差し掛かったが、そこで飛行機は突如進路を西へと取り始めた。北側には——そう、ウクライナがある。未だロシアに乗り入れている航空会社であっても、さすがにウクライナ上空は迂回せざるをえないようだ。全くもって卑近な話ではあるものの、戦争の影響を空域迂回による所要時間増で直接的に受けた形になる。

最終的にこれだけの迂回が取られた

  それ以外は概ね快適なフライトで、ドバイを離陸してから6時間足らずでワルシャワ・ショパン空港に着陸した。3年ぶりのポーランドの大地、そしてこぢんまりとした空港ターミナルの姿が非常に懐かしく思われた。入国し荷物を受け取ると足早に市内へと向かう鉄道駅へと向かった。

ポーランドの大地を上空から まもなく着陸するところだ

首都の避難民支援

 鉄道駅にたどり着き、切符を買おうとするとまずウクライナ語が飛び込んできた。「領収書は 要/不要」というよくある画面が放置されており、どうやら直前のグループがウクライナ語を選択して購入したらしい。ここで勘違いしてはならないのは、先述の通りポーランドには以前から特に出稼ぎ移民のウクライナ人が少なからず居住していたということだ。当然だが、ポーランドに滞在しているウクライナ語話者全てが難民というわけではない。

3年前にポーランド・ビドゴシュチで見かけたウクライナ語の看板 求人情報だろうか?

 続いてワルシャワ中央駅に到着した。ふと見上げると、「インフォメーション」とウクライナ・英・ポーランド語の3言語で表記された看板が貼り付けられている。少しへたっていたので直感的に侵攻後に設置されたものとは気が付かなかったが、よく見ると「ポーランドはウクライナを支援します」というスローガンが同じく3言語で表記されているのだ。間違いなく、難民支援の看板である。侵攻が始まってはや4ヶ月近く、とくに中央駅のような雑多とした場所ならば少々看板の汚損が進んでもおかしくはないだろう。

「インフォメーション」の案内看板 どのような意図かは分からないが、何者かに何かを貼られた跡がある

 実際にそのインフォメーションカウンターなるものがある1階メインホールまで上がってみる。
  本当に驚いた。カウンターが3〜4つ、それぞれこの先の避難支援や通信支援を行っているようであった。それでいてどれも(混み合っているとまでは言わないが)常にカウンターに誰かが訪れている状態なのだ。

インフォメーションカウンター 国旗には国章とともに「ウクライナに栄光あれ」の文字が

 カウンターには、言わずと知れたウクライナ移民のメッカであるカナダの国旗が掲げられているところもあり、どうやら遥々そちら方面への避難も行われていることがわかった。もちろんポーランド国内の都市紹介のようなものも書かれており、移動先はかなり多岐にわたっているようである。印象的だったのは、「難民には「搾取」されうる高いリスクに晒されています」と宇・露・英の3言語で記載されたポスターであった。確かに難民が誘拐・性的搾取に遭うというあまりにも卑劣な話は以前にも耳にしたことがある。しかしこうして実際にポスターが張り出されているのを見てみると、その愚かな事実がより一層現実的に感じられてなんとも言えない気持ちになる。

搾取に対する警告文 このような行為に出る者には人の心がないのだろう

 これに加えてメインホールの一角にはボランティア登録所があった。18歳以上限定とのことで、ウクライナ語が冒頭に掲示されていることから志願者は主にウクライナ人を対象としているようだ。カウンターに立っているのもこういったボランティアの人々なのだろうか。

ワルシャワ中央駅のボランティア登録所
デザインとして印象に残った張り紙

 この他、応急医療所やトイレなどの施設を掲示したウクライナ語表記看板も存在した。大きな支援からきめ細やかな案内まで、様々な配慮の形が取られているということらしい。

お手洗いはこちら

 街中ではウクライナの国旗が至る所に掲げられていたり、ウクライナへのメッセージが記されたポスターが貼られているのを数多く目にした。「ウクライナに栄光あれ!英雄たちに栄光を!(Слава Україні! Героям слава!)」と書かれた横断幕が大々的に掲示されているところもあり、ウクライナに対する強い連帯意識を各所で感じ取ることができた。

ウクライナ国旗は至る所で見かけた
この建物はとりわけウクライナへの支援メッセージを貼り出していた

全国に広がる支援

 このような光景は首都・ワルシャワに限ったものではなかった。後の章と少し時系列が前後することがあるが、まずここではポーランド各都市におけるウクライナ難民支援の様子を紹介したい。

トルン

 ワルシャワから北西に180キロ、客車列車に揺られること3時間。中世ドイツ騎士団領の城壁を今もなお残す世界遺産の街・トルンにやってきた。プラットホームに降り立ち、駅舎に入ろうとドアに手をかけたところ、ワルシャワ中央駅と同様に「インフォメーション」と例の3言語で書かれた張り紙が目に入った。
 「こんなところ」という言い方は幾分失礼な表現かもしれないが、思わず「こんなところにまで」と言葉が出てしまった。よくよく考えればカナダ行きの支援もあるほどである。ポーランド国内で、国境からある程度の距離もある地方都市ならば避難先として十分に選定されうるだろう。それでもやはり、この長閑な街でも戦争の一端を感じさせられたことはショッキングであった。後述の通り、このような光景はおそらくポーランド各都市で同様に見られるものであるのは間違いないことだと思われる。

トルン駅のウクライナ難民インフォメーションセンター 
24/7とは24時間年中無休営業のことを表す

 しかしトルンでとりわけ驚いたのは、街のシンボルにウクライナ国旗が掲げられていたことである。
 トルンは地動説を唱えた著名な天文学者、ニコラウス・コペルニクスの生まれ故郷として知られており、彼はまさしくこの街を象徴する存在となっている。そのこともあって旧市庁舎前の広場にはコペルニクスの像が堂々鎮座しているのだが、訪れてみるとなんとウクライナカラーの襷が掛けられていたのだ。これには一般施設の前に国旗を掲げるよりも何倍ものインパクトを感じられた。

天文学者・コペルニクスの銅像

 これに加えて、中世の城門にもウクライナ国旗が吊るされていた。ここには以前からずっとポーランド国旗が吊られていたのだが、今般の戦争によって向かって正面左側にウクライナ国旗が追加されたのだ。

どちらも二色横縞の国旗なので並べると対称的でなかなか美しい
もっとも、こんな理由で並べられる日など来て欲しくなかったのだが……

 このあと訪れた都市の状況を考えても、トルンにおけるウクライナ国旗の扱い方はかなり踏み込んだもののように思われた。それだけ行政や民間の支援・連帯意識が強いということなのだろう。

もちろん、連帯の張り紙も街角で数多く見かけた
トルンは小規模ゆえに落ち着いた雰囲気が素晴らしい街だ
旅の疲れを癒すのには最適な街なので、ぜひ訪れてみて欲しい

グダニスク

 トルンからさらに北に150キロに位置するグダニスクは、バルト海に面する美しい港湾都市だ。かつてプロイセン領だったこの地はドイツ語の「ダンツィヒ」という名でも非常によく知られている。

運河に架かる橋から 非常に風光明媚な都市である
旧市街は迷路のようで、どこまでも強烈な美しさに圧倒される

 グダニスク駅にもウクライナ避難民向けのインフォメーションカウンターがきちんと存在した。規模が比較的小さいからだろうか、内部はそこそこ混み合っているように見えた。
 駅構内のみならず、旧市街にも難民支援所のようなものが存在した。窓にはPayPalのQRコードが書かれたポスターも貼られており、積極的な寄付を呼びかけているようだった。

グダニスク旧市街の難民支援所 二色旗とハートを模ったデザインのイラストは時々見かける

 グダニスクで印象に残ったのはストーブに貼られていた「私たちはロシアからガスを買いません」というステッカーだ。ポーランドでは6月でも日が差していない日(特に夕方)は冷えるので、飲食店のテラス席ではガスストーブがよく稼働しているのだが、そこにこのステッカーがこの貼られているのだ。他の都市では見かけなかったのでグダニスク限定のオリジナル品なのだろうか?

「ロシアのガスは買いまへんで」という、デザインとしてもわかりやすいステッカー

クラクフ

 ワルシャワから250キロ南に位置するのは、かつてポーランド王国の首都であった街・クラクフだ。第二次世界大戦ではワルシャワとは対照的にドイツ軍による破壊をさほど受けなかったため、特に旧市街には歴史的な建造物が数多く残っている。

市街地南部の丘から旧市街を眺める

 クラクフ市街地はウクライナ国境まで200キロほど距離が離れているが、ポーランド=ウクライナ国境の主要出入国地点であるプシェミシル(メディカ)とポーランド各地を繋ぐための交通の要衝となっており、避難民支援の規模は比較的大きい。中央駅の前では、避難民むけの炊き出しが行われていた。

「温かいごはん」という文字が張り出された炊き出しテント クラクフ中央駅前にて

 街角では、戦争直後から広く用いられているスローガン“Нет войне(=戦争反対)“をもじった“Хуй войне(=くたばれ戦争)”という落書きを見かけた。間違ってもロシア語の授業で使ってはいけない程度には下卑な表現ではあるが、これはなかなか記憶に残るものであった。それにしても、ポーランドでキリル文字となるとこれを書いた人が何者なのか気になるところではある。

お上品な表現ではないが、メッセージ性は強く感じる

 クラクフで最も印象的であったのはウクライナ避難民とポーランド国内の支援者が合同で行っている反戦集会だった。この集会はクラクフ1番の中心地である中央市場広場で毎日数回行われており、ウクライナ・ポーランド両国の国旗や民間人が殺害された都市が描かれたボード、様々なスローガンなどを掲げていた。

反戦集会の様子

 掲示に加えて、マイクを持った避難民たちが「いかに残虐な殺戮が行われているか、日々どれだけの人々が殺され、子供が殺され、大人が殺されて孤児が生まれているか」ということを訴えかけていた。子供から大人まで、時に感情的に、時に淡々と、様々な人が交代でマイクを手にしていた。

自分の背丈よりも大きな国旗を振る少女
「沈黙は暴力である」

 特に規模が大きいのは夕方の集会で、足を止めて耳を傾ける人の姿も一段と多かった。この回ではポーランドとウクライナの国歌がそれぞれ歌われ、集会者たちの「ウクライナに栄光あれ!」という掛け声に対して聴衆の中から「英雄たちに栄光を!」と大きな声が上がった。

「私たちのために空を閉鎖してください!」とはおそらく飛行禁止区域設定の要求と思われる
隣には虐殺が大々的に報じられたブチャのボードが

 おそらくこの集会を見ている瞬間こそ、私がこれまでに一番「戦争」を感じた時であったと思う。避難民の生の声に、国境から200キロの地点で接するという体験に並々ならぬ切迫感があったことは間違いない。
 残虐で泥沼化した戦争に対して、集会という対抗手段は極めて地道なものである。しかしながら、家を追われた人々の悲痛な訴えは確実に聴衆の心を揺さぶるはずだ。ここから生まれる連帯意識は必ず大きく育ち、いつか世の中を大きく動かす時が来ると信じている。

少女は前に立ちマイクを持ってウクライナ国歌を歌っていた
何を思いながらここに立っているのだろうか

グディニャ・カトヴィツェ

 最後に、少しだけ降り立った北部の街・グディニャと南部の街・カトヴィツェの様子を紹介したい。

グディニャ駅にて 「グディニャはあなたと共に」というメッセージが書かれた難民登録所案内ポスター
カトヴィツェ駅にて 中央左側にウクライナ国旗が掛かっているところが難民案内所だ
カトヴィツェ中央広場近くの写真屋にて 避難民は証明書用の写真を無料で撮影できるとのことだ

 余談であるが、カトヴィツェの街中にウクライナ国旗の「ような」旗がポーランド国旗と共に飾られていた。

いかにも工業都市という趣の市章である

 中央にあるのは工業都市・カトヴィツェの市章である。一見するとウクライナ国旗に自身の市章を入れたなかなか思い切った支援メッセージを感じるところだが、よく見ていただきたい。そう、ウクライナ国旗だとすれば青と黄色が上下逆になるはずなのだ。ウクライナ国旗は青空(=上の青色)のもとに広がる小麦畑(=下の黄色)を表しているという定説があるが、これでは天と地がひっくり返ってしまっているではないか。

ウクライナの首都・キエフの地下道壁面 国旗の由来がよくわかる作品だ

 実はこれ、カトヴィツェ市の旗なのだ。恥ずかしながら、twitterの方からの指摘を受けてようやっと気がついた。何度も見てきたはずのウクライナ国旗だっただけあって、思い込みというのは恐ろしいものだと改めて感じさせられた次第である。

列車の中で出会った避難民

 ポーランド国鉄では国内/国際列車を問わず、様々な長距離列車が運転されている。そのうちの1つであるROZEWIE号は、北部の街グディニャから南部の街クラクフまでを結ぶ、ポーランドを縦断するようしてに走る夜行寝台列車だ。西部の街ポズナンやヴロツワフを経由し、10時間ほどの所要時間をかけてのんびりと終点まで走り抜ける。

グディニャ中央駅にて 緯度が高いので22時でも空が明るい

 今回乗車したのはクシェットという寝台車で、簡易寝台と訳されることが多いクラスだ。しかしながらこのROZEWIE号ではコンセントやバリアフリー化粧室完備の新車が投入されており、リネンや寝具類もきちんと用意されているため一般の寝台車と何ら遜色のないものであった。
 つくりは旧ソ連圏の2等寝台クペーとよく似ており、コンパートメント内に2段ベッドが対面で並んだ4人部屋となっている。ただベッド下のスペースが旧ソ連車と比べるとかなり狭い(線路幅が違うので当たり前といえば当たり前である)ため、大きなスーツケースを持ち込む場合は要注意だ。

「簡易寝台」といっても非常に快適なクシェット車

 グディニャ中央駅から乗車したのは私と、スポーツウェアを着た爽やかなポーランド語話者のおじさんだった。話によると、はるばるドイツからポーランドまで自転車で旅をしていたとのことだ。程よく陽気な方で、するすると進む会話が心地よかった。

グダニスク中央駅手前 やはり日が落ちると一気に暗くなる 

 グディニャ中央駅を発車して30分ほどでグダニスク中央駅に到着した。始発駅から近い規模の大きな都市であるだけあって、ここから乗車してくる人はそれなりに多い。
 ふと、廊下で聴きなじみのあるような言語でなされている母子の会話が聞こえてくる。もしや……と思った時、おじさんがボソリと「ウクライナ人だね」と言った。やはりか。もっともこの時点で私は母子の会話がウクライナ語でなされているのか、それともロシア語なのか判断がついていなかった。ただ、ポーランド語ではなく東スラヴの響きであることは確実だった。
 コンパートメントに暫しの沈黙が流れる。私が「ウクライナ、3年前に2回行ったよ。キエフとリヴィウ……とても美しかったね……。」と言うと、彼が一言「ファック、プーチン」と呟いた。まったくもってその通りだ。
 しかし、戦地の隣国に生きる人間による生の怒りの言葉は、たったの一言であるのにも関わらず鉛玉のように重たく、私は「本当にね……」と相槌のように声を絞り出すことが精一杯だった。なおさら、さっきまでの陽気な彼の姿を見ていただけに。

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