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モスクワに留学していたら戦争が始まった話-6-戦争が始まった日

↑前回 2月23日(開戦前日)の記録

2月24日 朝

 モスクワ時間、午前8時。アルコールの支配から抜けきらない頭は、少し早くなった日の出の光によって叩き起こされたような心地だった。ここのところ徐々に晴れ間が見える日も増え、陰鬱とした雰囲気も幾分か緩和されていく、春の兆しがどこか見えるような気がした。それにしても、今日ばかりはもう少し寝かせてくれてもよかったのにと、我儘にもそう思った。
 意識がはっきりしてきた頃、そういえばあの後結局どうなったのだろうと思いTwitterを開く。戦争が始まると言われていたけど、どうせ今日も何も変わらない1日なんだろうとその瞬間まで考えていた。















プーチン 軍事作戦開始を宣言




クリミア半島のウクライナ側検問所が攻撃を受けている




ベルジャンスクで大爆発




首都キエフでも爆発




ハリコフが攻撃を受けている




オデッサでも爆発




ハリコフ市街地が炎上中




ウクライナ 戒厳令発令か












戦争が始まった。















 意味が分からなかった。夢であってほしいという希望すら浮かばず、まず最初はこれは夢に決まっているだろうと断定しきっている自分がいた。現実にしては脈絡がないし、更に「起こっているとされる」事態は想定していたことよりもはるかに派手だったからだ。しかし同時に、夢にしても肉体の感触や精神の明晰さに際立ったリアリティがある。一体これは何なんだ。
 どちらにせよその時目の前にあったのは、Twitterのタイムラインを流れていく文字列たちだった。時には映像付きで、検問所に軍事車両が突入していく様子や街が燃えている姿が映し出されていた。悪趣味な光景だった。
 文字にすると長ったらしいものだが、実際のところ事態を飲み込んでいく時間はほんのわずかなものだった。視神経にかかっていた靄のようなものの向こうにあるものが現実であることを理解し、ふと一気に意識が現実に引き戻された刹那、「終わった」という言葉が口をついて出た。

 ふと、ウクライナの街並みが目に浮かんだ。奇しくも2月24日は2019年、初めてウクライナに降り立った日だった。よりにもよって、モスクワから列車に乗り込んで陸路で国境を越えたのだ。
 初めてキエフ駅に降り立った時、濃密な空気に包まれた。石炭暖房と排気ガスの重苦しさに加えて街が醸し出す独特の退廃的な雰囲気に圧倒されるほかなかったのだ。しかし、高台から見る景色は壮観であった。

 夏に来るとその重苦しさも幾分か緩和され、ドニエプル川に擁された美しい街並みが広がっていた。2回目の訪問ということもあって、ずいぶん落ち着いて踏みしめることができたキエフの姿に一層惚れ込んだ。ユーロマイダンの痕跡もまた、思い知ることとなる。

 オデッサは夏にも関わらずキエフを上回る混沌があった。輝かしい黒海のリゾート地というイメージに加えて、まるで中東のような埃っぽいバザールや木々に覆われた暗がりの街を、少しびくびくとしながら歩いた。それにしても、あの海を拝むことができたのは純粋に感慨深かった。

 リヴィウではサマースクールに参加した。3週間を過ごした街は「西」とも「東」ともつかない不思議な空気感で、自分にとってはどこか納まりの悪さを感じることすらあった。狭い坂道にトラムとバスと車が密集するゆえ、大学までの通学路は常にストレスフルだったが、そんな日常のなか街の食堂で食べるソリャンカは救済のごとく五臓六腑に沁みわたる温かさと優しさにあふれていた。

 市庁舎広場前にはお気に入りのカフェがあった。授業が終わった後、そこでケーキとハーブティーをセットでいただくのが最高の幸せだった。少しずつウクライナ語でスムーズに注文ができるようになっていく、自分の成長を実戦で感じることができたという点でも尊い場所だったのだ。

 しかし、寮に帰れば9月であるのにも関わらずセントラルヒーティングが修理中で湯が出ず、ずっと水シャワーを浴びていたのには堪えた。退寮のほんの2日ほど前にやっと湯が出た時は、心の奥底から安堵と喜びの叫び声が漏れた。当たり前のことがこんなに有難いことだったとは、まさかウクライナに来て実感するとは思ってもみなかった。
 あの当時、あの街に関することは自分が未熟だったゆえのネガティブな思い出も多いが、長く過ごした街というだけあって深く否めない愛着にどこかあふれていた。

 圧倒的な思考の渦に巻き込まれていた私はまず何よりも、今起こっている事実を理解したくなかった。呆然としつつも、心のどこかで必死にこの現実と抗おうと試みていた。
 もし万が一に何かあったとしてもドンバス地域や東部ハリコフに留まると考えていた私にとって、首都キエフや南部オデッサさえも攻撃を受けている映像は受け入れがたいものだった。プーチンは本当にどうかしている、どうかしているにしても、筆舌に尽くしがたいという言葉ですら到底表現できない絶望感に満ちていた。「どうかしている」の度をはるかに越した現実が広がっていたのだ。
 尚更悪いことに、その瞬間私の肉体はモスクワに在った。人道・倫理に大きく反し、脈絡から著しく逸脱した軍事行動をとっている当事国の首都の、学生寮の小さな部屋のベッドの上に私は確かにその瞬間居た。
 そしてよりにもよって矛先が向いているのは、私がかつて1カ月近く滞在したあの愛憎溢れる国だった。誰が誰に対しても行ってはいけない、行ってほしくない行為の全てが、自分の一部として切り離すことができない記憶と存在、そして今この瞬間に深く深く関わっている。「終わった」という一言には、ざっとこのような感情が込められていた。

 ほんの数滴、本能的に自然と涙が零れた。悲しい、辛い、苦しい、許せない、信じられない——そんな具体的な感情の総称としてではなく、もっと心の奥底から溢れ出る何かが目元に表れたのだろう。そんな涙もひとしきり流れ去った後にはもう枯れてしまった。
 この先、私は数えきれないほどの現実に向き合うこととなるが、当面の自分にとってこれが最後の涙となる。泣いている場合ではないし、泣いたって何も変わらない。理性的な表現をすればおそらくそんなことを考えていたのだと思うが、ありていに言えば私の感情は数カ月にわたり激しく麻痺することになったのである。

 兎にも角にも、この状況は文字通り他人事ではなかった。感情的な面は当然さることながら、今後の自分の生活に大きく関わることが起こってしまったのだ。「緊急帰国」という選択肢もちらつく中、最も問題となるのは送金に関することである。
 ドネツク・ルガンスク国家承認が行われたタイミングで、既に国際送金システムのSWIFTからロシアを除外する可能性があるというニュースは流れていた。この事態に陥ったともなれば、日本からの送金や、日本のカードでの決済、キャッシングが遮断されることはもはや時間の問題だった。
 ルーブルのレートを見ると、前日の終値から既に0.1円の大暴落が起きていた。日本の金で生活する以上、一見ありがたいことかもしれないが送金が止まってしまえば元も子もない。即座にシステムが遮断されることもないだろうが、どうにか早急に対処する必要があった。

2月24日朝に暴落したルーブルのレート

 考えることはひたすらに多く、それに対して私はつとめて冷静であろうと試みた。このような状況では様々なデマが流れるかもしれないし、戦況はもちろん自分の生活に直結する情報については特に慎重に取り扱わないといけないと自分に言い聞かせた。
 ただ、特段その時の私は取り乱すこともなかった。いや、取り乱す気力すらなかったのが正解だろうか。頭はよく動いていたが、驚くほどに体に力が入らなかった。布団に寝転がってひたすらTwitterのタイムラインを追い続けることが精いっぱいだった。
 Twitterには戦況に加えて、プーチンに対する怒りや困惑、絶望の声などが山のように流れてきた。ひときわ目に留まったのはロシア語学習者の矜持やそれを擁護する声だ。「こんな時だからこそロシア語を」「ロシアの文化を完全にキャンセルしてはいけない」という声は私も常日頃思っていることであり、この愚か極まっている政治に強い怒りを表してもロシアに関する全てを否定するのは間違っている。
 だが、私はそんなことを言っている場合ではなかった。言葉、文化、歴史などなど、「あの」ロシアが生み出したものに対する憧れは、もはや自分を構成する不可欠な要素であるのは言うまででもない。だがそれは「あの」という遠く抽象的な指示詞ではもはや言い表せないほどに近く具体的になっており、現にその時わたしは「あの」ロシアに存在していたわけだ。
 包み隠さず告白すれば、当時どす黒く歪んだ歴史の渦と共に彼の国の一部となっていた私は、そのような綺麗ごとじみた決意表明にひどく嫌気がさしていた。気持ちだけではどうにもならない、明日からの生活がどうなるのかという喫緊の課題が喉元に刃のごとくつき立てられていたのだ。
 それでも私は「こんな時だからこそロシア語を」と強がりながら呟き、ロシア語の教科書を開いてみた。しかし自分でも驚いたことに、名状しがたい感情に襲われてえずいてしまい、即座にその冊子を閉じた。パソコンを立ち上げて授業に出ようという気力など、なおさら微塵も湧かなかった。

 当時の私は「歴史の証言者」となることを極度に嫌っていた。今でこそこのように記録をしたためており、おそらくこれは貴重な資料のひとつとなるだろう。だが、私はそうなりたくてモスクワにまでやってきたわけではない。ただひたすらに、コロナ禍で閉塞していた自分の夢や憧れを叶えるためである。様々な縁に恵まれ、必死に努力を重ねつつ、多くの犠牲もまた同時に吞み込んで手に入れた尊い日々をこのように台無しにされるのは、さながら予期せずして地獄に堕ちたような気分だった。
 やはり、綺麗ごとを言っている場合ではなかったのである。あの日から2年経った今だからこそ、このように比較的整った形で文章に取りまとめているし、それは非常に意義のある作業だと考えている。だが、2年前の自分にとっては極めて残酷な行為であり、今なお当時の自分の感情を実直に思い返していると、キーボードを叩き割ってやりたくなるような本能的な狂気に苛まれてしまう。

 ひとしきり呪詛を虚空に念じ続けてようやっと昼を迎えた時は、もう夕方になったのではないかと思うほど時計の進みが遅いように思えた。
 部屋から這いずり出て、昨日浮足立ちながら食べた自家製二郎風ラーメンの残りを調理する。一晩置いたから、というレベルではないほどに、昨晩あれほどまでに美味しく感じたラーメンの味が一切しなかった。こんな時でも腹が減り、何かを食べないと生きていけないのは滑稽でもあり、愚かさすらも感じるようであった。


いつでも買える土産物を

 気が付いたら私はメトロに乗っていた。こんな時くらい部屋に籠っていてもよかったのだが、同時に「こんな時だからこそ街の様子を見なければ」という感情もあり、昼過ぎにはそちらの思いの方が勝っていた。ついさっきまで言っていたことと矛盾するような気もするが、こういう時の変な思い切りの良さは我ながら私の長所である。まあ、7割くらいは完全に感情が麻痺してしまったからだとは思うが。
 実際、これは諦めの境地の第一段階に達したゆえの行動であった。いつ情勢が急変するかわからないこの状況で、物理的な思い出を残さず緊急帰国となってしまうのはあまりにも寂しい。となれば今のうちに腐らない土産物はさっさと買っておこうと思い、モスクワ郊外の土産物市に赴くことを決めた次第だ。後になってから言えば、この判断はなかなかに正解だった。
 街に出ると普段とは何も変わらない様子だった。不気味ではありつつも、これもある程度予想通りではあった。脈絡のない軍事行動だからこそ、侵略者側の街並みに突然脈絡が生まれるのもおかしな話だ。
 同時に、被侵略者側の国からすれば街並みが唐突に脈絡なく破壊されてしまうわけだが、この奇怪で暴虐な非対称性のもとで目下の日常が守られていることについては考えないようにしていた。おそらくこれは無意識的なレベルだったと思うが、既に大幅に摩耗し麻痺していた自分の精神を守るために、脳のどこかがブレーカーのごとく機能していたのだろう。

 乗り換えを経て30分ほどメトロに揺られ、モスクワ北東部にあるПартизанскаяパルチザンスカヤ駅に辿り着いた。トンネル状の駅が多いモスクワのメトロの中で、四角形に開削されたこの駅のホームはひときわ異彩を放っている。

さながらシャンデリアのない広々とした地下鉄天王寺駅である

 地図を見ると駅前のショッピングセンターにズベルバンクのATMがあるらしかったので、いくらかキャッシングをしておく。この時点ではATMは閑散としており、問題なく現金を手にすることができる。
 ここから向かうのは、Вернисажヴェルニサシュという土産物の露店市である。マトリョーシカに代表される木造りの小細工などを安価に手に入れられる、知る人ぞ知る優れたスポットだ。コロナ禍前にはそれなりに賑わっていた市場も、観光客がかなり減少していたのか閑散としていた。
 同じような品々が並ぶ露店がいくつかあるが、優しげで笑顔が素敵なお姉さんが立つ店に惹かれて足を止める。彼女はアジア人らしい顔立ちで、おそらく中央アジアやシベリアの民族にルーツがあるのだろう。
 目的であった「モスクワ郊外の夕べ」が流れるオルゴール細工を購入した後に、お姉さんといくつか言葉を交わす。印象的だったのは彼女が私のロシア語に対して、「あなた日本から来たでしょ?アクセントが日本人だから」と鋭い指摘を入れたことだ。基本的にロシアでアジア人顔は中央アジア系の人間として扱われるか、観光客らしく振る舞っていれば問答無用で中国人としてみなされるため、後にも先にも国籍を正確に見抜かれたのは初めてだった。話によると、コロナ禍の前は日本人も数多く来ていたらしいが、最近ではめっきり来なくなってしまったし日本語で「こんにちは」「ありがとう」を何と言うかも忘れてしまった、ということだった。
 そんな中でもお姉さんは引き続き「マトリョーシカもあるけど、買っていかない?」と営業トークを仕掛けてくる。マトリョーシカはあまりにもド定番であり、日本ですら容易に手に入ってしまうゆえ一度は断ったものの、ふと差し出された一体に私は惹きつけられてしまう。
 見事な金細工が施された表側には、頭部に柔らかな表情の顔と、胴体に深く美しい青色をバックに正教会がラメ細工で描かれている。おそらく焼き入れたと思われる線画が優しく各所に彫り込まれており、背面には柔和な花弁が描かれていた。そもそもの土台となる木材からも上質さが漂っていた。
 無言で見とれている私に、彼女は「これはモスクワをモチーフにしたマトリョーシカだよ」と語りかけつつ、そもそものマトリョーシカという名前の由来を丁寧に解説してくれた。どこにでもありふれているマトリョーシカも、この一体だけはどこか特別なように感じられた。
 かくして私にしてはかなり珍しく、自分用のマトリョーシカもまた追加で手に入れてしまった。今もなお、あの日々を象徴する神聖で美しい標として、大切に部屋に飾ってある。

想いがこもったマトリョーシカ 純粋に美しい造形をしている

 Вернисажヴェルニサシュを去って駅に向かう途上、突然母親から電話がかかってきた。あえてこちらから連絡することはなかったが、さてどのような声が返ってくるか、少し不安になりながら通話ボタンを押した。
 幸い、向こうは案外落ち着いた様子だった。戦争が始まった、ああそうだ、そうらしい。送金はどうするのか、今はまだSWIFT外しこそされていないがどうなるのか。まず事務連絡である。
 そして「残念だけどウクライナはすぐに制圧されるだろう」と母親は言った。今流れてくるロシア軍の圧倒的な進撃を見る限り、そう思うのは無理もないことである。正直、かなりの程度同意をしそうになったが、そこで自分は思わず「そんなことはない、ウクライナ人の根性をナメてはいけない」と返した。これは2019年のリヴィウで参加したサマースクールの経験によるもの……と断言できるほど強い根拠ではない。概ね、希望的観測だった。
 ただ、あの時肌で感じたウクライナ人の反骨精神は並々ならぬものであったのは確かだった。近現代の歴史的経緯からのロシアに対する感情は、博物館や資料館を訪れると圧倒されんばかりに感じることができる。特にユーロマイダンやドンバス紛争に関することは、現在進行形のこととして生々しく、明確にアピールされていた。簡単に「抵抗する間もなく負けてしまうだろう」などと言いたくはなかった。
 そして再び、今後はどうするのかという話になった。その時の私は、「ひとまず外務省からも大学からも指示がないので一旦は残留するし、送金も続けてほしい」と答えた。先行きが見えない中で、帰国という選択肢も現実的なものになりつつあったが、その段階では大きな判断を下すこともまたあまり具体的には考えていなかったのだ。
 母親は結局大して心配しすぎるそぶりを見せず、通話を終えた。まあ、今はむしろこの方が助かるくらいだ。異常に気にかけられてもまた、日々の負担が増えてしまうのは間違いなかった。

 その後はそのまま地下鉄に乗ってもよかったが、私はふとペテルブルクにいる友人の様子が気になったので連絡をとってみることにした。この行為は同時に、同じ国で同じ事態に陥っている同胞と少しでも状況を共有することで、幾分か閉塞感を和らげたいという考えによるものでもあった。
 話を聞くに、どうやらペテルブルクもモスクワと同じように表向きの日常が流れているようだった。そして私も友人も「戦争が始まってしまった」という事実以上の情報は持っておらず、今後の漠然とした未来について不安をひとしきり吐きあうことが、互いにとってできる全てであった。たったそれだけのことでも、私にとっては大きな救いとなった。
 やはり焦っても仕方ない、落ち着いて日々を生きるしかないということがその時の結論だ。

混乱

 通話を終えてモスクワ中央環状線に乗り、乗り換えた先の地下鉄駅のホームに立っていたその時、一通のメールが届いた。外務省からだ。

【ポイント】

●ロシア軍がウクライナに侵攻しています。ウクライナとロシア間及びウクライナとベラルーシ間の国境周辺地域では軍事衝突による大きな被害が予想され、極めて危険な情勢です。どのような目的であれ、これらの国境付近には決して近づかないようにしてください。また、現在国境周辺地域に滞在されている方は直ちに退避してください。

●現在、日本国政府は、ウクライナ全土に対して危険情報レベル4:「退避してください。渡航は止めてください。」(退避勧告)を発出しています。どのような目的であれウクライナへの渡航は止めてください。

『【広域情報】ロシア軍侵攻に伴うウクライナとロシア間及びベラルーシ間の国境周辺地域に対する注意喚起』 日本国外務省 2022年2月24日 配信

 正直、やっとかという感想だった。既に侵攻が始まってから12時間が経過しており、それまで私は日本の外務省が在露邦人に対してどのようなアナウンスをするのかということを、首を長くして待ち続けていた。
 もっとも、内容に関しては概ね予想通りだった。侵攻が始まった事実だけを淡々と伝え、国境付近にいる邦人にのみ明確な退避指示を発する。それ以外の地域にいる邦人に対する具体的な指示がこの短時間で決まるとは、もとから期待していなかった。むしろ、モスクワ滞在者にまで侵攻開始後12時間で「退避しろ」と勧告が下ってしまう方が大騒ぎになる。ウクライナ全土からの退避勧告も、2月11日にすでに発出されていたものだ。

 まあ、そうだなという以上の思いもなく、私はいつも通り寮からほど近いショッピングモールにあるスーパーマーケットに向かった。こんなところも、普段と何も変わらない日常だった。
 スーパーではシロークが半額ほどで安売りされていた。ほのかに甘く味付け・着香されたカッテージチーズがチョコレートで巻かれているこの小さなお菓子は、濃密な舌触りと2層構造のハーモニーがたまらない、私の大好物だった。食べ過ぎると否応なく腹の脂肪もまた元気になってしまう恐ろしいものだが、美味しいものがお得に手に入るのは純粋に嬉しいことだ。
 たかが手のひらにも満たないほどのスイーツの割引とはいえ、張り詰めた私の心がどこかほぐれるような心地がした。こうしたささやかな幸せというものは、案外侮れないものらしい。

 さて、買い物を済ませてショッピングモールの2階に上がる。ここにはズベルバンクの支店があり、私は念のためもう少し現金を手元に置いておこうとATMに向かったのだ。そこで見たものが、モスクワで最初に観測した目に見えて分かる日常の混乱だった。
 銀行のATMコーナーが人で溢れかえっていたのだ。人々は血相を変えて現金を何度も何度も引き出していた。ズベルバンクのATMは、1度に引き出すことができる現金の上限が7500ルーブル(当時のレートで約1万円)で、各々がどうにか引き出せる限りの現金を引き出そうとATMの筐体を塞いでいた。
 そこに殺到する人々の狂気じみた表情と、なんとか必死に割り込もうとする不届き者たちの行いも相まって、さながら地獄絵図だった。突如として乱入してきた身なりの汚れた老夫婦が、現金にありつくことが困難であることを理解するやいなや、大声で「クソ野郎!」と言い放って去っていった光景は今でも脳裏に焼き付いている。
 つい数時間前にモスクワ郊外のATMに行った時は一切こんなことはなかったのに、この変化は一体何なのだろうか。いくつかのATMは既に現金の在庫が尽きたらしく、入金以外の稼働を停止していた。

 ひとまず分かったことは、少なからぬモスクワ市民もまた「とんでもない混乱が起きるかもしれない」という恐怖に苛まれていたということだ。プーチンが早朝に「特別軍事作戦」の開始演説を国民に向けてしていた時点で、ウクライナに対する軍事行動を行っている事実そのものを隠すつもりがなかったのは明白である。さしずめその大きな情勢の転換の中で、「口座が凍結されるかもしれない」などといった怪情報でも流れたのだろう。
 ロシア国民の間で「特別軍事作戦」開始の賛否がどのように分かれたのか、その瞬間の正確な数値を知ることは非常に難しいことかもしれない。しかしながら、日常生活にネガティブな影響を与えうるかもしれないと感じた人々が一定数いたことは、この混乱が証明している。

 しかし不思議なことに、ショッピングセンターから少し離れたロシア農業銀行は閑散としており、問題なく現金を引き出すことができた。あまりの不気味さに思わず身構えてしまったほどだが、明細を確認する限り特段高額な手数料を取られているような様子もなかった。
 確かにズベルバンクは全ロシアを代表する銀行で、ロシア国民の生活とは切っても切れない重要な社会システムの一部分である。それにしても、単に現金を安全かつ早急に手に入れるためなら、何もズベルバンクだけにこだわる必要もないのである。
 念のため寮のより近くにあるズベルバンク支店に行くと、より一層悲惨な混雑と混沌が広がっていた。どうにもこの「ズベルバンク信仰」とも言うべき市民たちの行動は理解できなかったが、他社ATMの現金在庫が尽きるのも時間の問題かもしれないと、私はぼんやり思った。


それでも腹は減る

 行動していると時間はあっという間に過ぎていくもので、気が付けば夕飯時になっていた。昨日までの積極的な食欲は完全に消え失せていたが、腹が空いているという感覚だけは明確にあった。あまり気乗りしない心地ではあったが、私はふと「トマトの卵炒めを作ろう」と思い立った。
 これはこの組み合わせとしては意外かもしれないが、実はこれは中国の現地では特に愛されている中華料理のド定番である。卵とトマトを炒め合わせて、中華風の調味料で味付けをしてとろみをつければ完成する至って単純明快なレシピゆえに、どう作っても外れない家庭料理なのだ。
 実はシロークを手に入れたスーパーで、私は同時にトマトと卵、そしてケチャップを仕入れていた。自分にとっての得意料理であり、この精神状態でも簡単かつ美味しく食べられるだろうという目論見だった。

 気だるさを感じつつも、私はいつも通り適当に調理を進めた。日本で買うものと違って卵をしっかり加熱しないといけないのは少し難点だが、中華調味料は前日にモスクワ市内を歩き回って仕入れたものが山のようにあったし、総じて問題ない仕上がりに収まるだろうと考えていた。

トマトの卵炒め 本来は美味しいのだが…

 さて、実食である。そっと料理を口に運ぶと、いつも通りの美味しい炒め物が——あるはずだった。私はスプーンを手に持ったまま、厳しい表情で俯いてしまった。ハッキリ言って、大失敗だった。とにかく、味のバランスが全くとれていなかったのだ。食材の特徴や調理環境が日本と違うことを考慮しても、ここまで不味くなることはそうそうないはずである。どう考えても、精神的な不調で調理の腕も味覚も完全に鈍ってしまったと言うほかなかった。
 このことは、私の心により一層の負担をかけることになる。日々の楽しみである食事でさえ素直に享受できないとなると、なかなかに悲しいものだ。感情をあらわにして気を狂わせるなどといったことは一切なかったものの、私の肉体は少しずつ、意識の及ばないところでストレスに蝕まれていった。胃が慢性的に痛みはじめ、時にはその刺激が背中にまで及ぶことすらあった。

 2022年2月24日は早朝から無数の情報を摂取し、そこに確かに存在していたらしい現実と向き合い、絶望をし続けていた。あの夜、ベッドで何を考えていたのかはもはや記憶にない。おそらく、記憶に残すにはあまりにも重苦しい思考の渦で脳内が満たされていたのだろう。
 そんな1日にも暦の上ではきちんと終わりがやって来た。あの日、あの時、私が何をどう考えて行動したのかという正確かつ具体的な全てを書き出すことはもはや不可能である。ただ1つ確かだったのは、時間は残酷にも、平等に過ぎていったということだけだ。
 明日がどのような日になるのか皆目見当がつかないような中でも、時間だけは何も変わらず過ぎていく。真に激動の日々となる2週間が、静かに始まろうとしていた。

(つづく)


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