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落ち葉を封筒に入れて

冬のあたたかな晴れた日。

友人と、きれいな落ち葉を拾って、贈り合おうという話になった。各々が、近所に落ちている冬の落ち葉を拾ってきて、それを封筒に入れて相手に贈り合うのだ。身近な街の植物を見るのが好きなその友人と私にとっては、離れていてもできる、最高の遊びである。

私は早速、友人に贈るための落ち葉を探しに近所の午後の公園へ出かけた。家から歩いてすぐだけど、これまで来たことのなかった公園は、住宅街の中にあるこぢんまりとしたところだった。

ワッシワッシと落ちている枯葉の音を立てながら歩く。公園は、クヌギやイチョウの木などの雑木林になっていて、地面は枯葉でいっぱい。背の高い、裸になった冬の雑木林の間から、やわらかい西日が差し込む公園で、落ち葉を探す。

しばらくすると、一人の女性に声をかけられた。自分の母親世代とおぼしき女性も、この小さな公園でどんぐりを拾っていたらしく、どんぐりの入ったビニール袋を片手に、「何しているの?」と尋ねてきた。友人と、落ち葉を拾って贈り合う約束をしていると伝えると、「えーステキねー!」ととても喜んで、その方の2人の息子さんの話などをしてくださった。その日はちょうど、大学入学共通テストの日で、「試験を受けている息子のこと考えながら、木に囲まれて深呼吸したりしているの」と教えてくださった。子を想う母の気持ち、なかなか想像できないところも多いけれど、少し涙が出そうになる。いつかそう思える日が来るのだろうか。

その方との別れ際、「さっき行ったらもう梅が咲いていたよ」と近くのおすすめの公園を教えてくださった。これは行くしかない、とまたまた初めての公園にたどり着いた。

その公園は、規模は大きくないけれど、近所の子どもたちが大縄跳びをしたり、鬼ごっこをしたりして遊んでいる、かわいくてにぎやかで、どこかほっとする空間だった。かくれんぼで、落ち葉の中に隠れて、「もういいかいー?」「もういいよー!」と叫ぶ子どもたちがかわいらしかった。

梅を見て、公園の池の周りを歩いて、公園の端の雑木林の方へ歩いて行った。

すると、立派な髭をたくわえた仙人風のおじいさんが、一本の木の目の前に、体をピタリとくっつけるようにして座り、絵を描いているのを見つけた。そのあまりの精密さに思わず足を止めたところ、絵を見せてくださった。まだ色はついていなかったものの、何か月もかけて、毎日同じ場所で木の幹を描いているそうで、大きな模造紙のような紙を7枚分つなぎ合わせて1枚の作品が出来上がるとのこと。木の幹のしわが繊細に、でも力強く描かれていた。

その方によると、木の幹は毎日変化がないけれど、自分の気持ちには毎日毎日変化がある。だから、それをいかに冷静に、精神を落ち着けて描けるかが大変なのだという。「だから若い人には描けないんだよね。若いころは、自分もそうだったけれど、あっち行ったりこっち行ったり、いろんなところが見てみたくなるし、自分のやり方で描きたくなる。残り時間もたっぷりあるしね。若いうちはそれでいいんだけど。」

毎日同じ木に向き合い、肩の力を抜いて、心を落ち着けながら、それでもその木への感動は持ち続けること。その心の持ちようが大切だそうで、この年齢だから描くことのできる作品であるとお話ししてくださった。木とまるで会話をしてるかのように向き合う姿を見て、それによってはじめて、木の幹の「生きた線」が描けるのだろうと思わされた。

その方と別れ、すぐそばを流れる川へ向かうと、大きなカメラを構え、川に向けて連写するカメラマンと遭遇した。すかさずレンズが向けられている先を見てみると、そこにはカワセミがいた。青い背中とオレンジ色のお腹。その美しい風貌でいて、川の中の獲物を捕らえるときの俊敏さには驚かされる。

カワセミの一挙手一投足を見逃さず、後を追うように複数のカメラから「カシャカシャカシャ」とシャッター音が鳴り響く。そのすぐそばで、おじいさんは、淡々と、木と対話をしていた。


帰宅し、拾ってきた落ち葉を封筒に入れる。今日出会った落ち葉たち、太陽、お話した方たち。そのすべてを少しずつ思い出しながら封をする。

あたたかな冬の落ち葉拾い日和であった。

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