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年功序列は成長を放棄する考え方だ

「年功序列」による人事をやめようという考え方が広まりつつあるのは皆さんもご存じですよね?「歳を取っているから」「社歴が長いから」といって優秀とは限らないという考え方です。
「年功序列なんてやめちまえ」という考え方は私は大賛成です。なぜなら人間性をちゃんと評価することなく無条件に年長者を優遇する考え方を続けていては、今後日本はずっと発展せず閉塞感から抜け出せないままになると思うからです。
ではなぜ日本人はこうした考え方に囚われ続けているのでしょうか?

「年功序列」の起源は儒教

「年功序列」を社会のモラルとした起源は恐らく孔子に始まる『儒教』でしょう。強い者が支配者となる古代中国の混乱期に孔子は初めて「モラル」と呼べる規範を示しました。
中国で最初のモラルであり、それは「家族の論理」をベースにしたものでした。
生きる知恵が共有されにくい古代の村社会では長生きした人の方が物知りだったので年長者が大事にされていました。それをそのまま国家全体に応用したのです。
これでおのずと社会の序列が決まり、争いが鎮まると孔子は考えたわけですね。
そこでは支配者は国家における「家長」の役割を期待されましたので、中国が統一されたのちは儒教の考え方が重宝され、中華文明圏内にも受け入れられていきました。

日本の「年功序列」の旗振り役は徳川幕府

孔子が狙った効果を日本で強力に推し進めたのは徳川幕府でしょう。
日本の戦国時代を終わらせた後の時代です。荒々しい武士たちに下克上を忘れさせ、庶民を支配しやすいように儒教的モラルを日本人に刻み込んだのです。
社会の序列が決まることで争いはなくなりましたが、同時に多くの人たちから向上心を尊ぶ心も失われました。
ですが支配者にはそれで良かったのです。なぜなら向上などしなくてよかったから。
争いがないことが何よりも望ましいことだと考えられたのです。
その結果江戸時代を通じて大衆文化は発展し、一部のマニア気質の人が学問や芸能の発展に一味加える程度のことはありましたが、社会秩序は変わらずほとんどの人が生まれた時と同じ境遇で人生を終えたのです。

儒教的社会観は変化や向上を想定していない

欲を出して他人を出し抜くこと、能力のある人が上に上がることを儒教的価値観は歓迎しません。
社会が変動すること自体を阻害しようとします。そもそも社会の変化を想定していないのです。
なぜでしょう?
たぶん孔子はいい人だったのですがものすごく頭が固く、人が「己の分」を守れば世の中が平和になると単純に信じたのでしょう。
彼には社会が変化し発展するという発想は無かったと思います。
良い社会と悪い社会があるだけなのです。
ですから儒教的価値観では良い社会は変化しなくて良いのです。

変化はおろか自由な発想も否定したでしょう。それで社会の序列が乱れるならば彼は猛然と反対したかもしれません。
本人はそうは考えなかったとしても、「儒教」として整備されていく過程でそうした思想として定着していきました。
しかも孔子の考え方は同時代にはあまり受け入れられなかったものの、のちの時代の支配者には大変都合のいいものでした。ですから長い間儒教が中華文明圏での公式イデオロギーとなり、東アジアの後進性を助長することになったのです。

日本での「年功序列」の現状

日本では儒教が公式なイデオロギーとなったのが遅かったためか、その悪影響はいまだに日本社会に根深く残っています。

若い人は能力があろうが頑張ろうが、その見返りは遠い将来ですらもらえる保証はありません。
早々に若手サラリーマンはやる気を失っていきます。
それでも都会では若い人たちが空しく努力を続けていますが、田舎では若者が老人に食わしてもらっているのが現実ですので、おのずと若い人たちが「お年寄りファースト」になっていきます。
そこでは年功序列予備軍が育成されているのです。

年配の人も今以上の頑張りは決して評価されませんので、やる気は上がりません。
年長者が偉いと教わって生きてきたので知識をアップデートしようという発想がありません。
企業は早期退職でシニア社員を追い出すことは可能ですが、一般社会ではそうはいきません。
むしろ今まで自分たちがしてきた忍従の借りを取り戻そうとして、今こそ威張り散らそうと期待しているかもしれません。
親の面倒は子世代には辛い負担となります。少しばかり聞き分けが良くなってくれれば良いのですが、それは「意地でも」やろうとしないでしょう。
「老害」が近いうちに深刻な社会問題になるのは確実です。

老人たちがもっと理性的に判断して今までの生活スタイルや価値観を変え、効率的生産的に行動してくれればいいのですが、彼らはそうはしてくれません。
そんな老人世代のわがままに若者世代が付き合わされることで、経済的精神的な負担が日本の活力を大きく阻害しているのです。

儒教的価値観は「右下がりの社会」には通用しない

かつて日本は急激な発展を続けていました。
しかしその牽引役は一部のエリートです。彼らには進んで変化を受け入れることの意味を理解できていたでしょう。
でも大多数の労働者はエリートが作ってくれた「右上がりの社会」に乗ってやれと言われたことを頑張り、気が付かないうちに豊かになっていったのです。
彼らは自分からは変化しようとせず、むしろ昔からの儒教的価値観を持ち続けました。
エリートが変化させてくれている社会で自らは変化せず、生み出した富を年長者に差し出し続けていたわけです。
「次は自分がもらえる番だ」と信じて。

ですが時代は「右下がりの社会」に変わりました。
無条件に年長者に自分の稼ぎを貢ぎ続けていては先細りになっていくのは当然です。
これが今の日本の姿です。
2000年以上前の孔子の想定は改めるべきなのです。

孔子の思想を褒め称える経営者や政治家は多いですが、私は感心しません。
倫理性の高さがその理由でしょうが、支配者層が心酔すれば単なる綺麗ごとであり、被支配者層に広がれば思考を硬直化させます。
混乱の時代には一つの光明となるかもしれませんが、現代社会では大多数の幸福に対する単なる阻害因子にしかなりません。
指導者層が孔子を尊敬するのには中華王朝の支配者層と同じ心情が働いているのです。

競争を否定して奴隷として生きることが「年功序列」だ

儒教精神に裏打ちされた「年功序列」が存続する理由をおさらいしてみましょう。
それはまず争いを鎮めるために生まれました。
目指すは「戦の無い世」です。日本人はこの言葉が大好きですよね。
ですがその代償として人々の境遇は固定化され、飛びぬけて能力のある人以外は仕事すら変えることができなかったのです。
欧米人がやって来なければ今でも「江戸時代」でしょう。日本人は自分から変革は起こしませんから。
この記事を読んでいる皆さんのほとんどは「百姓」です。パソコンなんか持てないですね。
欲を持たず、みんな仲良く、黙って一所懸命に働くことが良しとされ、ずっと争いごと無く平和な日々が過ぎていきます。

普通そうした生き方を現代では「奴隷」と呼びます。
「幸せに過ごしていて不満が無いのになぜ奴隷なんだ?」と言う人もいるでしょう。
でもそれは違います。
自由が無く、秩序に反する者は生き辛くなる社会だからです。そしてそうした社会に私たちは現在実際に生きています。
そうした掟に反する人は間違いなく実害を被ることになるでしょう。
争いの無い社会を維持するために私たちは奴隷であることを求められているのです。
そしてその掟の一つが「年功序列」なのです。

年長者への「無条件の」尊敬なんかやめてしまおう

時代に合わないモラルが現代の日本を縛っています。
もちろん尊敬に値するお年寄りや組織に貢献している年長者もいます。でも年長者への無条件の尊敬はやめるべきです。
世界には理不尽な階級制度がいろいろと存在していますが、その中でも「年功序列」は最も根拠が無いものです。
経済力も腕力も知恵も美しさも無く、血統や家柄というオーラも纏っていない「ただの人」である年長者を崇め奉る日本の社会には全く発展は期待できません。
どんなに若い人が創意工夫をしようと頑張っても年長者の一言で蹴散らされてしまうことがあるのです。
必ずそうなるとは限りませんが、もし年長者とぶつかればほぼ潰されます。
「若い人が踏ん張ればいい」と言う人もいるでしょうが、なぜそうまでして年長者を立てる必要があるのでしょうか?

成功者の中には「年寄りなんか気にせずやればいいんじゃないの?」と言う人もいるでしょうが、それは一部のヒーローの論理です。
勝者の論理、幕末・明治の論理です。
だから世の中は変わらないのです。
皆が希望を持てる仕組みにしないと誰も乗ってきません。
結果成功しただけの人の軽口なんかもうたくさんです。
私たちには何の役にも立ちません。

年長者への態度は「さん付けで呼ぶ」くらいで十分です。
ただし変に馬鹿にした態度はとらないのは大人の常識ですよ。
親も大事にしなくて結構。自分で生きていかせましょう。転んだら起こしてやるくらいで十分。
年長者が尊敬されないのはその程度の人間だからで、ちゃんとしていれば尊敬されます。

まず最も古くからある、最も変わっていない常識を変えていくことから社会は変わっていきます。
逆にそれをしなくては今後も何も変わらないでしょう。
皆さんはどちらを選びますか?

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