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『スタンド・バイ・ミー』 メンタルクリニックの映画館

 

『スタンド・バイ・ミー』
(ロブ・ライナー監督、1986年)

"死体探し"の冒険の旅にでる12歳の4人の少年たち。が、少年たちの心のひだには、それぞれの家庭環境や、”いじめ”の問題が影を落としています。それらを通して、アメリカの格差社会の断面も見えてきます。映画を読み解きながら考えます。

【前口上】

 今日は、1986年に大ヒットしたアメリカ映画『スタンド・バイ・ミー』(監督:ロブ・ライナー)を上映します。公開当時(日本公開1987年)ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 舞台は、1950年代の末、アメリカ・オレゴン州の小さな町とその周辺の大森林。4人の少年たちが、好奇心から、森の奥へ“死体探し”の冒険の旅に出る―という物語です。

 12歳の夏休みの経験を描いているんですが、アメリカは9月が年度始まりですから、4人の少年たちは、ちょうど小学校を卒業して、中学校Jr. High Schoolに入学する直前です。

 皆さんは、小学校から中学校へ上がる時のことを覚えていますか?

 この映画で見るとアメリカでは、日本と学校教育のカリキュラムが少し違う。中学校へ上がる時に、さらに上の学校に進学するか、労働者階級working classとして生きるための職業訓練のコースへ入るか、はっきりわかれているようですね。

 日本ならば、多くが中学校を卒業するときに経験するであろう最初の人生の進路選択を、中学校に上がる前に迫られている少年たちが主人公。ということを頭のすみに置いておくと、少年たちの境遇がより切実に感じられるかもしれません。

”死体探し”の旅へ


【上映後】

 いかがでしたか?ベン・E・キングの主題曲♪Stand By Me♪が、物語の終わりになって、初めて流れるのがいいですね。お楽しみいただけたでしょうか?

 オレゴン州は、アメリカ北西部の州ですね。オレゴンというと大森林というイメージがあります。

 人口の9割は、西の太平洋に近い地域に住んでいるそうです。あとは森林と高原。モミやツガなどの森林が州面積の半分を蔽っている、と百科事典には書いてありました。

 成人して作家になった主人公が少年時代を回想するという物語。回想される時代は1959年の夏。せりふの中に戦争の話題が、たびたび登場します。テディの父親がノルマンディの勇士だったとか。

 連合軍のノルマンディ進攻は1944年6月。第二次世界大戦の終結からは14年、朝鮮戦争の休戦(1953年7月)から6年経っています。米・ソは、いわゆる“冷戦”のさなかですが、アメリカがベトナム戦争に本格介入するのは1964~5年。そうなるまでには、まだちょっと間がある。そんな時代です。

 そのオレゴン州の人口1300人ほどの小さな町。小学校を卒業したばかりの4人の少年たち。「自分にとっては全世界だった」と思えるような小さな町の外へ、森のなかへ。初めて自分たちだけの力で、“死体探し”の冒険の旅に出る。

 金曜日の午後から日曜日の朝まで、たった2日ちょっとの短い冒険旅行ですが、道中は波乱万丈。死体があると思われる場所まで20マイル。1マイル1.6㎞だから32㎞。1時間に4㎞歩いたとして、8時間かかる行程ですね。

 鉄道線路づたいに森の奥へ向かって歩き出したのはいいけれど、キャンプするつもりで4人とも家を出てきたのに、誰も家から食糧を持ってこなかった。わずかな4人の所持金で、かろうじて1食分の食糧を調達する。

   大きな鉄橋をおっかなびっくり渡っていると途中で後ろから汽車が迫ってきたり、コヨーテの遠吠えを聞きながらキャンプしたり。
 翌日は沼地にはまって大きな山ヒルに血を吸われたり、散々な目に逢いながら死体を発見すると、年かさの不良グループと対決する破目になったり…。

 冒険の旅が終わった時、物語の冒頭にでてきた秘密の小屋—大きな木の枝の上に上手くこしらえた、ああいうの、子供の頃にあこがれましたけれどね―あの小屋が、不思議と前より小さく見える。ぐっときますね。
 
 思春期にさしかかった少年の心の成長を、ちょっとしたカメラポジションの工夫で、そう見せていることに感心したんですが、そういう表現が説得力を持つにいたるプロセスと少年たちの心の襞がていねいに描かれているな、と思いました。

少年たちの心のひだを読む

 少年たちの心の襞を見てゆきましょう。

 大きな眼鏡をかけ、アーミー・グリーンのTシャツ、認識票をペンダントにしているテディは、父親が第二次大戦のノルマンディ上陸作戦の勇士だという。その父親はすぐカッとなる人で、テディは父親にバーナーで耳を焼かれたことがある。耳には大きな火傷のあとがあります。

 彼はしばしば危険を冒してムチャをする。
 森の奥から汽車が走ってきたとき、汽車を避けずにどこまで踏ん張れるか、ひとりで肝試しをしようとするシーンがありますね。
 
 クリスが抱くようにテディを線路から逃して、そのことでちょっとケンカのようになりますが、テディはいつも自分を大きく見せたい。“英雄”に見られたいと思っている。

 英雄(ヒーロー)にあこがれる。思春期の、特に男の子はそういうものです。4人が“死体探し”の冒険に出かけたのは英雄になりたいからです。けれども、テディの英雄願望には、父親をめぐる強いコンプレックスがあるようです。

 クズ鉄屋のあるじに父親のことを馬鹿にされたとき、彼は逆上して柵越しにつかみかかろうとします。父親は、どうも心を病んでいるらしい。はっきりとは語られませんが、戦争によるPTSDなんじゃないでしょうか?

 心を病んで息子にも暴力をふるうことのある父親を、テディはノルマンディの勇士だと信じて強いあこがれをもっています。そして父親が英雄として社会的に認められないことに、強いコンプレックスを抱いている。

 町の大人から「気がふれて病院送り」になったと、そんな目で見られることが耐え難い屈辱なんです。


 ちょっとおデブでのろまなバーンは、愛嬌のある性格ですが、クリスと同様、町の不良グループに加わる兄を持っている。


 ゴーディは、この物語の語り手ですが、4か月前に兄を事故で亡くしています。兄のデニーは大学のアメリカン・フットボールの選手だった。
 家族のスターだったんですね。婚約者もいた。兄の事故死以来、母親は暗い憂うつな表情で、どこか投げやりになっている。父親にいたっては、「デニーの友達は良かったが、お前の友達は低能と泥棒だ」などという言葉をゴーディに投げつけます。

 年のはなれた兄のデニーは自分を愛してくれていた、という思いがゴーディにはある。宝モノのヤンキースの帽子を譲ってくれた。
 
 町はずれの食糧雑貨屋でも、ゴーディは「デニー・ラチャンスの弟だろ?彼が亡くなったのは気の毒だった」と声をかけられます。「彼が代表選手に選ばれた時、クォーター・バックだ。あのパスはまったくすごかったね。」

 試合の前日、家族4人で食卓を囲んでいる時の回想―。父親は兄が試合に出場することで頭がいっぱい。

 兄は「ゴーディの書いた物語、読んだかい?面白いよ」と話題を自分に向けてくれようとするけれど、父親はゴーディなどまったく眼中にない。
 しかし兄だけは、そっと「お前の書いたあの物語、本当に面白かったぞ」と言ってくれた。

 ゴーディはひそかに自分の物語作家としての才能を自覚しはじめているようです。が、誰も、そんな自分を認めてくれない、と思っている。


 
 そんなゴーディの才能を認めているのが、4人のなかでいちばん体格の良い、ガキ大将のクリスです。人一倍仲間を思いやる心を持っている。
 が、家庭環境が悪くて、兄は不良グループの準リーダーです。クリスが学校の給食費を盗んで停学処分を受けたことは、ゴーディの父親も知っている。
 
 大人は皆、彼は将来ロクな人間にならないだろうと決めてかかっている。本人もまた、そうなるだろうと思っているふしがあります。

  そんなクリスが、森の奥へと歩みながら、ゴーディの心の内に秘めた悩みに耳を傾けてくれます。

「君は本当の小説家になるのか?…君の父さんは何もわかってない。
 兄さんで頭がいっぱいだ。

 …おれが君のパパなら就職組に行くとは言わせない。
 君はものを書く才能がある。でも誰かが育ててやらなければ才能も消えてしまう。
 
 君の親がやらないなら、おれが守ってやる」

 いい友だちじゃないですか。

 日が暮れて、まっくらな森の中で、小さなキャンプ・ファイアを囲んでいるとき、ゴーディに皆に物語を話して聞かせるよう促すのは、クリスです。

”嫌われ者のデブ”の復讐物語

 ゴーディが話して聞かせる物語には、未来の物語作家の才能の片鱗が伺えます。“僕らと同い年”、だが“嫌われ者のデブ”の復讐物語…。

 映画ではちょっとウェッとなるようなシュールな場面に仕立てられていましたね。
 あの物語は、自分たちと同年代の、醜い嫌われ者が、校長先生や町長さんやおなじみのラジオDJや町の老若男女—つまり世の中全体を相手にして復讐を企てるところが、ミソだと思うんです。

 大人たちから正当に認めてもらえない、自分たちの欲求不満を掬い取って代弁している。

ゴーディの物語には未来の才能の片鱗が…

 物語をきいた3人は「イェーッ‼」と大笑いして喜びます。そのあとの3人の感想は三者三様ですが…

クリスは「たまんない。最高だよ」

テディは「それでブタケツはどうなった?これはどうだ、彼は家に帰り父親を撃ち、逃げてテキサス決死隊に入る」―暴力をふるう父親に対する不満が、ちらっと顔を出す。

バーンは「ゲロだらけって最高だよ。でもひとつわからない。彼、競技の参加費は?」―トンチンカンを言って皆をちょっとシラケさせる。

 その後、コヨーテの遠吠えにおびえながら、交代で見張りをたてて眠りにつきます。

「ぼくのことを誰も知らない土地へ行きたい」

 ゴーディは悪夢にうなされる。

 亡くなった兄の埋葬の場面。兄の柩が静かにおろされてゆく時、ふと父親が自分の肩をつかんで言う。「お前ならよかった」。
 
 本当はそんなことを言うわけはないのに、“自分は愛されていない”という思いが、そんな風に心を追い詰めてしまっている。

 悪夢におどろいて目を覚ますと、傍らにクリスがいる。

 兄を亡くしたゴーディの悲しみをクリスはそっといたわってくれます。ゴーディは毛布から脱け出して、見張りをしているクリスの傍らにすわる。

「ぼくと進学組に入ろう」
「あり得ないね。…ムリだ。…みんな家庭で判断するのさ。ぼくは家庭が悪い」
「そんなの間違ってる。」
「その通りさ。給食の金の時も何も聞かれなかった。いきなり停学さ」

 クリスは彼だけが知る秘密をゴーディに打ち明けます。

 彼は学校の給食費—クラスメイトの分も含めた少しまとまった金額でしょう―を確かに盗んだ。けれども、悪いことだと改心して担任の教師に金を返しに行ったんです。
 その教師は、彼を裏切り、金をネコババして罪を彼に被せた。クリスは、そのことに深く傷ついています。

「ぼくが盗った給食代をサイモン先生が盗った。
 それをぼくが言っても、アイボールの弟のクリスを誰が信じる?
…これがもし、金持ちの子のしたことなら、先生は同じことをするか?」(クリスは泣き出します。)

「でも、まさか…まさか先生があんなことをするなんて…もういいさ。…ただ…ぼくの事を誰も知らない土地へ行きたい」

 私の友人の娘さんで、もう成人する年頃じゃないかと思いますが、小学生だったころ、クラスでいじめを受けた。それがなかなか深刻なレヴェルで、中学校にあがる時「自分のことを誰も知らない学校へ行きたい」と言って、学区外の中学校を選んだ娘さんがいました。
 
「ぼくのことを誰も知らない土地へ行きたい」というクリスの告白に共感する経験をもつ若い人は結構多くいるんじゃないでしょうか?

 ゴーディもクリスも、本当の自分を周囲の大人に認めてもらえないことに、傷つき悩んでいます。

 4人の少年たちの心の襞には、それぞれの家庭環境や“いじめ”の問題が影を落としている。
 いま“いじめ”という言葉を使いましたけれども、例えばクリスが学校の教師から受けたような仕打ちは“いじめ”の一種でしょう?格差を固定化させるような差別ですね。

もう一種の”いじめ”ー不良グループの衝動

 この映画には、もう一種のいじめが出てきます。

 不良グループの弱いものいじめですね。エースという男がリーダーで、クリスとバーンの兄も不良グループのメンバーです。

不良たち

   盗んだ車を暴走させ郵便受けをバットで壊す遊びに興じたり、無軌道にふるまっています。

 彼らが、2台の車をアクセル全開で並行して走らせて競い合うシーンがあります。対向車が走ってきても、エースはフル・スピードのまま道を譲らない。あわや激突という間際に、対向車のトラックは辛くも道をはずれて荷崩れを起こす。“チキン・レース”。一種の肝試し。

 このシーン、テディが走ってくる汽車を相手に肝試しをしようとしたシーンを思い出しませんか?作者は、明らかに二つのシーンを対比していると思います。

 テディは、汽車を避けられると思っていた。エースは、ぎりぎりで対向車のトラックが避けるだろうとタカをくくっている。どちらも実際より自分を大きく見せたい、欲求不満の表現です。行為の根っこは同じなんです。
 
 但し、年かさのエースの行為の方が、より幼稚です。あの暴走は、仲間や他人を巻き込んで本当に殺してしまいかねない。

 欲求不満のはけ口を、いつもそんな衝動と暴力に求めているから、森の中で4人の少年たちと死体の取り合いになった時、エースにナイフを突きつけられたクリスは危なかった。
 ゴーディが機転をきかせて、エースを銃で脅し、不良グループを退散させる。ゴーディは、エースが群れを頼みにしなければ一人では何もできない小心者であることを、よく見抜いていました。

 エースたち不良グループの行動の背景にあるものは、映画のなかではっきりとは描かれていません。
 
 が、職業に就いて自分がなにになるか、あるいは結婚して家庭をもって、それから…という自分の将来像が、アメリカの格差社会のなかで自由に描けない。夢が描けない、というところから荒れるんじゃないでしょうか。
 
 格差を固定するような社会の偏見とか、もっと経済の構造にかかわるような問題を、ちょっと感じます。エースたちのグループも、4人の少年たちと別な社会を生きているわけではない、ということですね。

 この映画は、1980年代から’50年代の末を回想していますが、21世紀の現在、アメリカ社会の格差は、はるかに深刻さの度合いを増しています。
 人びとの欲求不満が、その中に渦巻いている。『ジョーカー』(トッド・フィリップス、2019)のような映画が登場して大ヒットを記録するのには、理由があります。それを、社会の分断の方向へ煽る人が大統領になったりするので、心配なんですけれど。

人は、”絆”をよすがに人生の意義を知る

 主人公の少年たち、とくにゴーディとクリスについて言えば、あの森のなかで、自分の本当の心の内を打ち明けられる相手が欲しいとき、“そばにいてほしい”と思った友人が、そこにいてくれた。

 その幸福な体験があったから、2人は思春期の精神的な危機を、のり越えることができた。

 人間は社会的生物ですから、自分がどこに属して、なにをするか、自己承認を保障してくれる人間関係を必要とします。

 それを“絆”(きずな)と呼ぶこともできます。

 「きみは人生に意義を求めているが、人生の意義とは自分自身になることだ」。
 
 サン=テグジュペリの小説の一節です。このあいだ、ある人の思春期から青年期にかけての自分の読書体験を綴ったエッセイのなかに、さりげなく引用されていて感銘をうけたんですが、人は人生の階段を登りながら、自分自身になろうとして、悩んだり、喜んだり、悲しんだりする。

 けれども、自分とは何者か、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、自分自身を見つめなおそうとする時、“絆”がよすがになるんですね。

 ―そんなことを、この映画を観て、思いました。

”旅”の終わりに…

『スタンド・バイ・ミー』(1986年、アメリカ、コロンビアピクチャーズ)
原作:スティーブン・キング
製作:ブルース・A・エヴァンス、アンドリュー・シェインマン
監督:ロブ・ライナー
脚本:ブルース・A・エヴァンス、レイノルド・ギデオン
撮影:トーマス・デル・ルース
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、
   コリー・フェルドマン、ジェリー・オコンネル、
   キーファー・サザーランド、
   リチャード・ドレイファス、ほか












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