私は、人のために怒れる人間だったんだ
私は、人のために怒れる人間だったんだ
トラウマではない、昔のことを思い出した。
私が、中学生で野球部に所属していたときの話だ。チーム戦のような練習をしていたときだったと思う。幼馴染がピッチャーをして、私はその守備をしていた。確かファーストだ。当時の監督が腕を組んでベンチの前に立ち、大声でピッチャーに野次を飛ばしていた。
なぜ同じチームの監督が、同じチームのピッチャーを貶しているのか全く理解できず、ただただ腹立たしかったことが記憶に残っている。当時中学生の私は、その練習後の片付けで、取り外したベースを入れるカゴをファーストベースに叩きつけて怒りを示した。今思えば幼稚だが、ある意味年相応だろうか。
小学生の時、クラスにある女の子がいた。その子は成績もそれほど良いわけでもなく、運動もあまり得意ではない、何をやるにしても周囲に遅れを取る子だった。特別支援学級もあったが、その子は私たちと同じクラスだった。その子はよく、周りの子に「何してるの?こうしてって言われたじゃん」「遅いんだけど」などと言われることが多々あったと記憶している。
でもその子は、特に感情を荒げることもなく自分のペースでやるべきことをしていた。私は「遅いと思うなら手伝ってあげればいい、そうしないなら黙って見ていればいいし、この子がわざと自分の意思でそのようにしているとはとても思えない」と心の中で憤った。だから、黙ってその子のやっていることを手伝ってあげていた。
私は、肉体の声を聴き、あらゆることを受け止めながらトラウマより今を生きることができる人間だったんだ
高校生のとき、自らの意志でテニス部を選んだ。それは自由意志といういみではなく提示された選択肢の中から選んだという意味で。大した腕はなかったが、部内の誰よりも練習し、キャプテンもさせてもらった。うまくいかないことも多かったが、その度に恩師のもとに相談に行くのが常だった。
どうにもならない事は本当にどうにもならないんだと構造的に理解し、腹を決めてそれと接する。その時は、そんな姿勢を得られていたように思う。いや、今もそうだ。複雑に色んな事情があって私の力ではどうにもならないことなんて、とても数え切れない。
それを知り、「自分の可能性」というものを無限定に想定せず、今ある自分以外にはなれず、薔薇色な未来を夢想しないで、次々に立ち現れるものに「これが運命なのだ」と覚悟を決めてかかる。それが、大人になるということだ。
恩があるあの人
高校でテニスをしていた時、同じ高校の先輩でお世話になった方がいた。私より恐らく10年は先輩だったはずだ。当時20代後半ぐらいだろうか。その方は、飄々としていて色んな人と話すので、知るはずもない様な学校の内部事情(事細かな恋愛事情やらなんやら)を知っているなど、とにかく顔が広い人だった。その割に本人は「面倒臭いからあの人と関わるのはもういいかな」ということも多々あった。
私もその時期は、「テニス協会に入って、大会にもたくさん出る」と息巻いていた。今思えば、自分がそんなに息巻いていたなんて信じられない。
毎日時間を決めて生活を送り、決まった時間にストレッチをし、決まった時間に風呂に入り、ご飯を食べるなど、今思えば素晴らしい模範的な高校生活を送っていたと思う。
そうだ、私はそういう類いの方と付き合い、自分の身体性と向き合い、どうにもならないことを受け入れる姿勢を獲得しながら日々を送っていくことが出来ていたんだ。いや、そういうことが出来る人間なんだ。
トラウマというベールは、トラウマに見合わない不都合な記憶にことごとく靄をかける。それを時間をかけて紐解くことこそ、いま私がやるべきことであり、如何にもならない固定された過去を変えるということであり、それが「自分と向き合う」ということだ。
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