他人の幸福をずるいと思うとき、あなたの心は卑しくなる。

 匿名で日頃の愚痴を投稿し、それをユーザーたちで共感し合い、励まし合うサイトがある。誹謗中傷はもちろんのこと、そこではツイッターと違い、批判をしてはならない。誰かの痛み苦しみに寄り添うのが基本だ。

 私はそのサイトで、あるユーザーの愚痴投稿を見てびっくりした。そのユーザー曰く、生活保護を受給している人間が、米が好きであり、米をたくさん食べられることが幸せだと窓口の職員に話している場面を見、ひどく癪に障ったのだと言う。

 以前、他人の得を許せない人々が増加している、と言う記事を、ニュースサイトで見かけた。自分の周りにこのような人間はいないから、他人事だとばかり思っていたが、今回のケースは、それに該当するのではないかと思った。その愚痴に決して少なくはない共感の声が集まっているのも、「許せない人々」が増加している現実を垣間見たように思う。

 私は自分の稼いだお金で食べているのに。生活保護を受給しているのにどうして白米をたくさん食べられるの。生活保護を受給しているくせに、どうして米がうまい、米がうまくて嬉しいと言えるの――[仕事をしている私>生活保護を受給している他人]と言う心理があるから、その受給者の言動を許せないと思ったのではないだろうか。その愚痴への共感コメントの中にも、「(仕事をしている私たちよりランクが低いのだから)もっと慎ましい生活をするべきだ」と言う意見が大半を占めていた。

 自分は自分。他人は他人。自分の幸福の数値を計るのに、他人の生活レベル、他人の幸福と比べている。それではいつまでも満たされることはない。靴を買う金もなく、いつも裸足でいるのなら、例えお下がりでも、靴を履くことの叶ったときに幸福を感じるだろう。その人間の置かれた環境、健康状態、家族構成、生まれた国……さまざまな要因によって、何を幸福と思うかが変わって来る。行ってみたいお店がある――そう言うちいさなことでもいい。それをなしたとき、他人と比べようとする心の作用する隙もなく、「私はいま幸せだ」と思えるだろう。

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