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あなたの精神は自由ですか?

 今年度も、昨年度に続いて特別支援教育の免許過程を受講しています。

 【運動障害教育学】という講座の二回目のオンライン講義を終えての、気づきを記しておきたいと思います。

 今日の講義は、高木憲次という日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている人についてでした。

 彼の年表を追っていくと、生まれついての虚弱体質という弱さが、整形外科医としての彼を、弱い者へ目をやり、肢体不自由者の福祉という分野への尽力に駆り立てたことが想像できました。

 彼の活躍したのは20世紀前半。

 肢体不自由者に「かたわ」とか「びっこ」などの蔑称が使われ、その存在も隠されたり、市民としての尊厳や権利を否定されるような空気の時代だった。

 こうした呼称に疑問を持った同時代の先輩が「肢節不完児(しせつふかんじ)」という呼称を提唱していたけれども、高木はその呼称にもまだ違和感を感じていた。

 彼らは、不完全なのか?誰の物差しにおいて?

 そんな中で高木は、「肢体不自由」という用語をつくった。

 それは、ある青年との出会いがきっかけだった。青年は、ポリオで下肢の麻痺がありそのことで周りから差別を受て育ったが、志を持ち、後に政治家になる。

 高木は、「体は不自由、心は自由」というその青年の言葉に、ハッとする。

 「体が不自由」なのは、【自分の思い通りにならない】という点で不自由なのである。

 人と比べて、身体が【普通より】【欠けている】のではない。

 

 この言葉に、私もハッとした。

 100年程の時空間を越えて。

 …じゃあ、つまり、それって、

 私は、思った。

 もし、私たちの心が「人生は思い通りにならない」と根底で思っていたとしたら、私たちの精神は不自由だ、と言えるのではないだろうか?

 それは、持てる資源の多寡で、人と比べて、自分の人生が【欠けている】のではない。人によって、持てる資源、つまり、身体条件や生育環境や時間、そして持って生まれた嗜好や価値観のマジョリティとのギャップの程度、は異なるから。それらの中には福祉や支援が必要なものもあるだろう。社会の側の認識を改めなくてはならないものも多いだろう。けれども、「だから」「人生は思い通りにならない」わけでは、ないのだ。

 この制約があって、自分の周りのこの人達を守るために、もし不満をたらたらこぼしながら、自分の好きなことを追求せずにいるとしたら。

 不自由なのは環境ではなく、そこに捉えられていることを選び続けている、私達の心なのだ。と、反省と自戒をこめて思う。

 かくいう、私も、半分ぐらい、人生は思い通りにならないんじゃないか、と思っている。でも、残りの半分強で、人生は自分が選んでいる通りになっているし、それは良いものであれ悪いものであれ形でも実を結ぶ、と思っている。こちらが優勢で、でもたまにひっくり返ったりする凡人だ。

 その凡人が、敢えて感じたことを口にする。

 「人生は思い通りにならない」と思っているのだとしたら、私達は立派な精神不自由者である。


 精神不自由者を作り上げる教育の何と横行していることか!
 今、三十代半ばですが、私たちはきっと、そういう無力感の枷を知らず知らずのうちに着込んでしまうような時代を生きてきたような気がする。

 だから、今のわれわれが精神不自由なのは仕方ない。
 そして、何事にも段階がある。
 実際に人生が思い通りにならず、苦しさに直面しなければならない時もある。

 じゃあ、それに気が付いたら?

 その制約という条件の下で、わたしたちは新しい自己認識と、その自分が力を発揮できる新しい生活スタイルを築いて行くことが、必要になるんだと思う。そしてそこはわたしたち一人ひとりの、勝負どころ。

 
 人生は思い通りになると固く信じて、そのために自分の安全ゾーンから未知の領域へ踏み出すことを厭わない。目の前のことに集中力を注ぎ、過去と未来に自分を煩わされるのを許さない。

 そういう生き方をして初めて、私達は精神自由者になれるんじゃないか。

 わたしは、もっと、自由になりたい。

 

 最近、夜の夢に見てやまない、20代前半のシングルで身軽で、思い立ったらバックパックでどこへでも行けた学生時代。その頃につけていたブルーのノートの扉には、どこかで出会った次の一文が刻まれている。

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 そのノートの一番最後のページには、次のように書いてある。

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 この10年、結婚と出産と家庭がわたしの人生に訪れてから、人生はなんて不自由なんだ、自由など私には縁遠いものだ、と何度思ってきたことか!

 それがこの半年、

 自分を知って時折心の中でこのノートに語りかけている私がいる。


 「ちょっと、自由になってきた、かも、しれない。」

この、人生観の転換は、どこから来たのだろう?それは、

インド映画を4年間観て癒しをすすめ、
 ホメオパシーに4年間お世話になって癒され、
  数々の自分を生きている人のブログやpodcastで生き方に触れ、
   大学に戻って発達障害について学んで自分を知り、

ADHDカウンセリングと知能検査を受けて
 自分の能力の凸凹を客観的に知り、
  きわめつけに
   タイムウォーリアーという英書に出会い、

そうした一連の自分の困難や経験を社会に役立てるには行動を起こさなくちゃいけない。もう、ただ座って他人が自分に求めるままにやろうとしてつまづくのを、待っているようなことはしたくない。
 No turning back、あの暗闇に戻りたくはない。

…と、心から思ったから。

 もう、人のものさしで生きて、それにハマれずにがっかりするのは、止めよう!と思ったのです。

そのエネルギーで、今年2020年になってから、

 noteをほぼ毎日書くようになり、
  ヒンディー語を自学するようになり、
   その進捗報告と外国語学習の希望のために
    Youtubeさとみちゃんねるを始め、
     個人でオンライン英語レッスンを始め
      開業届を出し、

 タイムウォーリアーを日本の出版社を通して翻訳しようと探し、
  自費出版になるので最低300万必要ですと言われ うわー無理だと思い、
   悔しいのでアメリカの出版元に問い合わせたら返事が来て
    版権を購入するに至り、
     翻訳を始めた!


行動は、人生を変えるのだと思います。
思ったように進まずモヤモヤすることもあるけれど、それのリデザインも含めて、私はこのライフステージを生きていることが愉しいよ、
と、ほかならぬ一年前の自分に、届けたい。

 

 精神自由者の翼を、生きとし生ける人が、持てますように。






◆そんな祈りをこめて、時間を尊び、時間から尊ばれる生き方を描いた本を翻訳しています。ぜひ、ご購読ください。



◆とはいっても、一筋縄ではいかない…時間に関する、最近のわたしのstruggle、内なる闘い、について話しています





追伸:
高木憲次という人は、次の言葉も遺しているそうです。今の時世に、刺さりますね。


”「医学の終局の目標は「医学の無用化」である“

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