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【随筆】うしなわれたひゃくねんを、家族に取り戻す

タイトルにした「うしなわれたひゃくねんを、家族に取り戻す」は、ひと月ちょっと前に、表題だけ書いて保存していたやつなのだけれど、

この題目と、今現在わたしのいる位置やそこで感じていることを合わせて何かを書こうとしたとき、頭の中が、「サマーウォーズ」の主人公のアバターが仮想空間でほかの人の力をぐわぁあっと集めているような状況だな、と気づいた。ドラゴンボールの孫悟空の元気玉みたいな。その他者の応援の力は色とりどりの渦を巻き、上昇気流のようになる。それがうまく昇華すると、筆、ないしタイプを打つ指先が弾む。

母の育ちと社会通念

昭和20年代生まれで宮城の田舎育ちの母は、一日に水汲みを何往復もし炊事洗濯をすべて手仕事でこなす祖母を見て育った。戦後の、そういう時代を生きた祖母だったから、祖父に連れられて仙台七夕を見に行った娘が七つで小児麻痺にかかり右手が不自由になると、いわゆる当時の「女性の仕事」はできない、だから結婚もできない、と踏んだのも分かるような気がする。

「あんだは結婚できないんだから、自立して生きて行けるようになりなさい」

そう、母は祖母にいつも言われて育ったそうだ。この「教え」を、あなたはどう思うだろうか――?

そんな母は、口癖のように「私は母みたいに器用じゃないから」「之子さんみたいになんでもきっちっとできたらいいんだけどねぇ~」と言った。今でもそうだ。こうしてみると、育ちの過程で繰り返し祖母から聞かされたその一言は、母の「女性」としての「自信」にある種致命的に働いているようにも思える。

翻って、時代は進み、全自動洗濯機がどの家庭にも当たり前のように普及し、ましてや上下水道にも漏れなくアクセスできる現代の日本にあって、母の身体的なハンディキャップが家事をするにあたっての支障となるような物理的障壁――つまり、「障害」の程度はかなり低くなったと言えるだろう。まして、家事の担い手が女性、という社会通念も良い意味で崩れつつある。

家事の物理的バリアは、取り除ける

前者の物理的障壁は、母が成人し社会に出る過程――昭和20年代から50年代――で、都市部・地方のスピードの差こそあれ、改善されていた部分であろう。実際、母が父のところに輿入れする際には、(こちらも息子が結婚できるか危ぶんでいた)父方の祖父母が家の増改築を行い、その際に水回りにも手を入れ、水しか出なかった水道にお湯も出るようにしたり、洗濯機も二層式から全自動にしたりしたようにと聞いている。

それでも、母の意識が昭和20年代、もしかするともっと前の、祖母の「両手が自由に使えない⇒家事ができない⇒女性として不足⇒結婚できないから自立が必要⇒できたけれど家庭の女性として不足」のそれから、抜け出すことが叶わなかったのは、なぜだろうか?

精神的バリアのクリアという,世代をかけたしごと

さて、なかなか子どものできなかった両親が、待望の第一子である私を授かったは、1985年、男女雇用機会均等法制定の年だ。母はそのころ民間でフルタイムの事務職で働いており、祖母の言葉どおり自立まっしぐらよろしく公務員の父よりもお給金を多くいただいていたのにもかかわらず、私を妊娠すると窓際族にさせられた、という。独身で男性の上司から「おなかの子が泣くでぇ」とか言われて退職を迫られたこともあったそうで、今だったらマタハラなんちゃら、とハラハラ騒がれるところも、当時はそうではなかったそうだ(…!)

そんな中、父方の祖母が私の生まれる数か月前に「あんだは子どもの側にいなさい」という言葉を母への遺言のようにして、病気で亡くなった。看護婦さんとして、私の父と叔母である二人の子どもを義母に預けながら、フルタイムで定年まで勤め上げた祖母だった。心待ちにしていた初孫の顔を見ることなく、みち江さんは63でこの世を去った。書道に民謡、着物の好きだったおばーちゃん。きっと話が合っただろうな、生きてたら。会いたかったなぁ。

そうして、祖母の人生をかけた反省――子どもを自分の手で育てられなかった――を反映して、母はくだんの職場を――何退職と言うのだっけ?産休明けでそのまま、退職したそうだ。こうして、私は専業主婦である母に育てられることになった。

専業主婦を一番身近なロールモデルとして育つには、私の育った時代は「均等法」の理念だけが独り歩きしていて、25で長女を産んだ私は、その実際と理想のギャップにいつでも悶えながらこの11年間、母親という役割と取っ組み合ってきた。特に、最初の4年ほどをフルタイム勤務をしながら走った期間は、自分の目にしてきた「お母さん」像と自分がそれを全く全うし得ない現実に心がもげそうだった。

こうして私・母・祖母の三世代を見ていると、祖母と母のテーゼとアンチテーゼを私の世代でもみくちゃにして、ようやく新たな価値観やライフスタイルを築こうとしている、そんな様相が見て取れる。「母親」と「女性の生き方」が今も呈しているであろう「生きにくさ」、私の世代に任された大仕事、クリアにしちゃる、と、先の二世代を時折つぶさに眺め、心痛めたりそうでなかったりしながら、思ってやまない。

人間誰しも,受け継ぐものがほしい

ちょっと話が飛躍するが、大人、もしくは物心ついたみなさんにお聞きしたいのだが、前の世代から誇りをもって継承している、もしくはするものって、あるだろうか?それはモノでも象徴的に良いのだが、それが象徴するであろうライフスタイルや人生訓、もっと言えばいかに四季を過ごすかというような生きる智慧、そこに詰まった身体所作のようなものだ。

このひゃくねんは、戦争や西洋化で価値観も生き方もがらりと変わった。その中で、それまで脈々と受け継がれていた日本固有の風土に根差した生活様式や考え方、そういうものもぷつり、ぷつりと途切れてきたように思う。母の世代と祖母の世代を見ていて、演繹的に、そう、強く感じる。それは都市部では顕著で、山間部ではもっとゆっくりのようだ。

命のバトンを受け継ぐだけではなく、それを整ったかたちで保つための智慧を受け継げることで、前の世代は安心し、次の世代へいろいろを譲って土へ還ることができるように思う。その智慧の部分がいつの間にかなくなって、最新技術や最新の商品に取って代わられたようになっているから、現代人の心は老人になっても不安なのではないだろうか。

経糸、横糸のように、ちゃんと世代間、同時代の人と人でつながっていたい。そういう欲求を、われわれ人間は持っているような気がしてならない。そして、その欲求が、見て見ぬふりされている。ちょっとその辺が危機的で、足元の危うい感じをつくりだしている。

智慧を掘り起し、継承する手になりたい

ご先祖の智慧を、きものに感じている。日本の風土に合った被服であり、身体軸を取るのに適しており、かつこれでもかという程に極められた意匠の数々――私を魅了せずにはおれない、きもの。

それを構成する紡績や、その前の養蚕や綿花栽培、染色と機織りの技術、そういうものに心惹かれている。

それから、自然と交わる技術も、戦前・戦後の「ぷつり」の以前を見聞きした最後の世代は、今は90代を超えている。

それまで脈々と受け継がれていた日本固有の風土に根差した生活様式や考え方、そういうものが途切れてきた――それは都市部では顕著で、山間部ではもっとゆっくりのようだ。

そういう場所のおばーちゃんに会いに行きたい。

織元を訪ねたい。

生糸を繰るようすを、そのゼロからきものの壱を創り出す工程を、次世代が手を重ねてやるような村をつくりたい。そういう場所を、がっこうにしたい。


わたしの夢は膨らむ。

三世代の宿題、ちゃんとかたちにしてみせるからね!




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