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時間を、区切るのじゃ

 これまで、時間の線引きは空間の線引きと似ていた。そんな人が大多数を占めていた。わたしも例にもれないその一人だった。通勤したらそこで仕事をして、通学したらそこで学生になり、家に帰ればおかーさんになった。

 だけど、これからは、時間の線引きを自分の脳内でやってのける力がずっと問われてくる、ような気がしている。脳内に自らパーテーションをつくり、今はこの作業に充てる時間、次はこの作業…と割り振る、けじめ力、みたいな力。

 誰かの手によってプログラムされた始業と終業のチャイムはもう、鳴ってくれない。あの鐘を鳴らすのはあなた、なのだ。

 私にこれを思わせたのは他でもない新型コロちゃんとそれがもたらしている社会の状況だ。地方のしがない兼業主婦の立場から言わせてもらうと、そのきっかけは大きく二点ある。

兼業主婦とオンライン講義受講の相性

 一点目は、二年目続投の大学の単位履修生で受講する授業が全てオンラインになったことだ。環境整備のために4月下旬、数週間遅れてスタートした授業は、好きな時に動画を見てそれに対するコメントやレポートを逐次提出する、完全オンデマンド式に変貌していた。

 「いつでも見られること」――それは、二・三足のわらじを履いている私のような人には、一方で紛れもない福音である。【自分の裁量次第でいくらでも効率よく】【移動時間を無駄にすることなく】【場所にとらわれず】作業を進めることができる。

 ただ、もう一方でこの方式は個々人のもつ時間的環境的資源に、多かれ少なかれ依存する。IT環境についてここでは敢えて述べないが、子ども二人と在宅しながら75分+αのまとまった時間を捻出するのは、思ったよりも難度が高い。

 聖徳太子型の集中力を持つ人ならもうちょっとうまくやれるのかもしれないが、私の場合は集中できる環境を是が非でも確保してやらないと、わたしの愛すべき欠陥だらけの脳は、集中してくれない。

 どうしたら、時間を区切れるのだろう? 
 場所を区切ることだろうか?(実際、行き詰まった時は強制的に場所を変えています)

 誰か、いい方法があったら教えてください。

「家からならいつでも参加できる」は誤解だった

 二点目は、先日remoというプラットフォームを使って1日仮想オープンキャンパスというのに参加した体験だ。

 自分でも「英語」を担当させてもらったが(上記美しいヘッダーはその時のもの)、他の方の講義にも、できるだけ「参加」してみた。家にいるから、料理をしていようと、子どもが遊んで構ってモードでいくら飛び掛かってこようとも、オンラインになって、そのオンライン授業に「参加」ステータスになれる。

 でも、やっぱり、注意がそこにだけ注げる時間をつくらないと、実りは少ないのだ。

 今回、面白そうだし、やれないことはないし…とあまり線引きせずに、自分がフルで集中力を注げない講義にも一部「参加」させてもらった。ながらだったり途中退場してしまった授業の先生方には失礼だったな、と反省しているし、大事なところで子どもが遊ぼうモードに突入したり、ラマダンが明けて夕食の時間になったり…と、頭に入ってこなかった。

 考えてみたら当たり前だけれど、そのイベントに自分をちゃんと投じないと、リターンしてくるものもないのだ。やっぱり「参加」はその場所に敢えてお金を払って電車を乗り継いで行く、ぐらいの覚悟が必要なんだな、お互い中途半端で与え合えないな、と痛感した。

 ① 家にいても、時間を区切る。

 ② 家族がいても、時間を区切る。

 何か、いい方法があったら、ぜひ教えていただけると幸いです。

(特に②!)



時間を追いかけずに、時間を大事に護る本を翻訳しています。
人一倍時間の正体がわからず、
時間と戦うことばかりしてきた私が出会った
古くて新しい哲学の実践書

ぜひ、読者になってください。





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