【連載小説】雨恋アンブレラ_2

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 雨が降る直前にだけ、立ちのぼるにおいがある。地面の底からふわりと香ってくるような、雨の気配がするような、重くて柔らかくて、どこかせつなくなるにおい。
 ずっと、誰も気づいていないんだと思ってた。小さいころから胸のうちに秘めていた、わたしだけが知っている世界の秘密だと思っていたんだ。
 でも、それは少しだけ違った。
 そのにおいにはペトリコールという名前がある、と教えてくれたのは、岡本先生だった。

 その日もわたしは完全下校時刻ぎりぎりまで焦って下絵を描いていた。線が揺れて思うようにいかず、描いては消しての繰り返し。どうして裏紙なんかに下絵を描いてしまったのだろうと後悔しながら、わたしはお昼休みに見た天海くんのあの顔と、お腹の奥が砂だらけの手で持ち上げられるような感覚が戻ってこないことだけを祈って、ただあの下絵を書き上げたときの完璧な手ごたえだけが指先に戻ってくるのを必死に追い求めていた。
 気づけば、美術室にはもう誰も残っていなかった。握りしめていた鉛筆が汗で湿っていて、凝り固まった首と肩にのしかかるような痛みがあった。
 さすがにそろそろ帰らなきゃと荷物をまとめていたところ、美術準備室から出てきた岡本先生とばったり出会った。もう誰もいないと思っていたらしく、驚いた拍子に、先生は手にしていた粘土細工の人形を床に落としてしまった。
 わたしはもう平謝りで、必死に地面に打ち付けられて変形してしまった手のひらサイズの人型を元通りにしようと頑張ったけど、まったく歯が立たたない。怒られるに違いないと、恐る恐る先生の顔を見た。
「見事につぶれてしまった。はは、これはひどいね」
 見てごらん、とひしゃげた人形の横顔を撫でて、先生は笑っていた。わたしにはどうして先生が笑えるのかわからなかった。
 落ちた衝撃で醜くつぶれてしまった顔と上体とは真反対に、先生が整えた形が残っている下半身や肩のラインは、しなやかに力強い筋肉と、その奥を流れる血管までが浮き上がってきそうなほど生き生きとしていて、だからこそわたしはいたたまれない気持ちになった。
「本当に、すみません」
「落としたのは私だよ。歌川さんがいて驚いたのは確かだけれど」
「なんてお詫びしたらいいか」
「謝る必要はないよ。もともと顔のあたりは気に入っていなかった。つくり直すには惜しくてどうしようかと思っていたけれど、これでつくり直すきっかけができた」
 妥協すべきじゃない、と美術の神様に言われているのかもしれない。先生はそう言って、白いひげをしごきながら変わり果てた人形を蛍光灯の明かりにかざしていると、思い出したように窓の外を見た。もうすぐ完全下校時刻だ。
「お詫びに、というわけじゃないけれど、窓を閉めるのを手伝ってくれるかい」
「やります、わたし、すぐ」
「助かるよ」

 換気のために開けてあった窓からは、午後になって急に曇り始めてきた空が見えた。ふわりと、あのにおいがする。
「あ、雨」
 わたしは思わずつぶやいていた。
「雨? 降ってきたかい?」
 岡本先生は不思議そうに、窓の隙間から手を差し伸べた。まだ雨は降っていない。でも、雨が降る直前のにおいがする。
「においでわかりませんか。雨が降るときって」
 わたしは秘密を打ち明けるようなつもりで、少しだけどぎまぎしながら、先生のほうを見ずに訊いてみた。すぐに、ああ、と返事があった。
「ペトリコール、というんだよ」
「え?」
「そうか、うん、確かに」岡本先生は目を瞑って、雨の気配を吸い込んだ。
「今日はにおいが強いかもしれない」
「さっき、なんて言ったんですか」
「ペトリコール、このにおいにはそういう名前がついているんだよ」
「知らなかったです、全然」
 ペトリコール、と口に出して言ってみる。
 わたしはずっと自分だけが気づいていると思っていた、このなんとも言えない雨の気配のにおいに名前がついている事実が、どうしても受け入れられなかった。呪文みたいだ。わたしはずっと勘違いしていたんだろうか。生まれてからずっと?
 わたしはみぞおちの内側が、冷えた手でわしづかみにされているようなあの感覚に襲われて、岡本先生に付き添われながら学校を出た。

 家に帰っても、食事がうまくのどを通らなくて、熱いシャワーだけを浴びてベッドの中で丸まった。
 こんなはずじゃなかった。
 こんなはずじゃ、なかったのに。
 頭に浮かぶのはそんな言葉ばかりで、考えないようにすればするほど、昼休みの光景が勝手に思い出されてくる。
 わたしは定期テストの範囲表の裏紙に、今度の文化祭に向けてずっと温めていた天海くんのスケッチを描いていた。笑顔がいいのか、真剣な顔がいいのか、ポーズは、構図は、とあれこれ悩みながら、しかも天海くんの顔や姿をじっくりと眺めることもできなくて、目に焼き付いた姿を思い出しながら思いつくかぎりのラフを描いていたのだ。
 天海くんにはもちろん、絵は誰にも見せなかったし、絵を描いているところも、慎重に隠した。
 なのに。
 それなのに。
  空から何かが降りてきたような、絶対にこれだ、と思える下絵が完成したと思ったら、風で飛んだのか、自分の範囲表と取り違えた近くの席の男友達が、絵を天海くんに見せてしまった。
 わたしはそのとき離れた席で友達とお昼を食べていて、だから、いくつも重ねて裏紙一杯に描かれたスケッチを見た天海くんが、気味悪そうに顔をしかめたのを見ても、知らないふりをしてやりすごすことしかできなかった。
  描いたやつストーカーじゃん、と面白がった男友達がはやし立てるのは、まだよかった。我慢ができる。けど、だけど、天海くんの表情は─────
 ベッドの中で、わたしは声をころして泣いた。我慢していたぶん、なかなかしゃくりあげるのが収まらない。
 わたしはずっと、勘違いをしていたんだろうか?
 雨のにおいを、わたしだけのものだと思っていたように。


(つづく)
 



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