【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_7

 騒ぎは加速度的に大きくなり、いよいよこれはただごとじゃない、と思うようになった。
 ただごとじゃない、といえば体を密着させたミサキさんもそうだ。煙のせいで視界不良も甚だしいが、人間の体温はわかる。
「一度、出口のほうに行きませんか?」
 ミサキさんの提案には賛成だが、出口がどこなのかわからない。他の人たちも同じようで、バタバタと動き回っている様子はない。何も見えないのは不安だけど、動くほうがもっと不安。それで動けずにいる。
「煙が晴れるまではじっとしていましょう。今はへたに動くほうが危険です」
「いや、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「その、なんていうか……」
 袖を掴んでいたミサキさんの手がスルスルと下りてくる。手首を超えて、掌へ。握りこぶしを情けなく開くと、汗ばんだ手が吸い込まれた。
 僕は必死に、煙が立ち込める前に見たミサキさんの顔を思い出す。確かに美人だった。よし、汗ばんでいても問題ない。
「出口のほうに行きましょう」ともう一度言われる。この視界の中で、避難誘導に殺到した人たちを押しのけて脱出するのは現実的でない。
「だめです。危険です」
「だから、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「トイレ! トイレに行きたいんです!」
 なんだトイレか、と言わなかった自分を褒めたい。そんなことを口にしたら、今度の取引はおじゃんになる。
「そう言われましても……」
「お願いです。出口のほうに行きましょう」
 ミサキさんの根気に負けて、かろうじて見える案内表示のほうへと踏み出した。足を踏み出した先に何があるかも見えない状況だが、意外と歩くのは難しくない。ミサキさんは無言で手を引かれているだけで、さっき預けたスーツケースの存在を思い出し、次いでヤカタさんのことを思い出した。
 この騒ぎの中、ヤカタさんは無事だろうか、という思いが半分。
 もう半分は、ヤカタさんが何かをしたのではないか、という漠然とした不安だった。

 これは不幸中の幸いに違いないが、出口に辿り着くよりも先に、トイレが現れた。これで一件落着のはずだった。
「ミサキさん、トイレ、ありました。これでだいじょ」
「だめです。出口のほうに行きましょう」
「え?」
 咄嗟にミサキさんの手を離したのは、我ながら好判断だったと思う。解説者が「今のはナイスプレーですね」と称賛しただろうし、スポーツニュースで「熱盛!」とコールされたに違いない。
 しかし、当事者にとっては余韻にひたる余裕はない。すぐに次のプレーに備えなければいけないからだ。
 すなわち、伸ばされたミサキさんの腕を払いのけるということだ。払えば逃げていくハエとは違い、払えば払うほど向かってくる、ハチのようなしつこさだ。
 薄々気づいていたが、こいつはただものではない。確実に僕を狙っている。
 腕を振るい、足を払う。何度失敗してもミサキさんはへこたれない。たいした精神力だが、体力はだんだん落ちてくる。
 動きが鈍くなってきたな、と感じるのにさほど時間はかからなかった。
 誰の? 僕の体力が、だ。
 ここまではジャブだったのだろう。見えない攻撃を無駄な大振りでかわしていたから、すぐにがたがきた。ばしん、と腕を掴まれる。ミサキさんの力が強いのか、僕の力が弱いのか、もはやわからない。
 掴んだ腕をたよりに、ぐいっとミサキさんの体が引き寄せられた。
「さあ、スエヒロさん。出口のほうに行きましょう」
「ひとつだけ質問をしたいんですけど」
「私のことでなければ」
「ヤカタさんを知っているか?」
 簡単な賭けだった。連勝で1.8倍。たいした儲けにはならないが、へたにマイナスを吐き出すよりはよほど良い。
 一瞬緩んだミサキさんの腕を振りほどき、その場にかがみこんだ。低い体勢のまま、コサックダンスの要領で脚を伸ばすと、ミサキさんの脚に当たった。「ごめんなさい」言いながら、膝を思いきり蹴飛ばした。固いものが砕ける感触、くぐもった悲鳴、床に崩れ落ちる音。
 これで終わりだ。
 次いでガラガラというスーツケースの音が一直線に近づいてきた。
「スエヒロさん、お怪我はないですか?」
「ええ、ヤカタさんは?」
「大丈夫ですよ。スエヒロさんのおかげで」
 そこから、僕は耳を塞いだ。相変わらずサブスクリプションサービスの上位を独占する二人組ユニットの音楽を大音量で聞いた。
 ヤカタさんに肩を叩かれて、すべてが終わったことを誘った。
 依然として立ち込める煙の中、僕たちはまっすぐ出口へと向かった。
 不思議なものだ。空港に来たときと帰るときで、スーツケースの個数が増えているなんて。

(つづく)

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