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君が口ずさむその曲の名前を僕はまだ知らない (掌編小説)

肌寒い季節になってきた。
この道を歩くのも何度目だろう。
初めて一人で歩いた時は駅まで辿り着くのに通常の倍の時間がかかった。細い住宅街を左右に何度も曲がりながらやっと大通りに出る。
ここまでくれば駅まではあと少し。

「もう少し、駅から近いところに住めばいいのに」
僕がそう言うと君は、
「静かな方がいいじゃない」
と、遠くを見ながらそう答えたけれど、多分、あれは嘘だったんじゃないかなと、思う。
君がここに住む理由は他にあるのだろう。

そんな初訪問からもう3年が経ち、君との時間を君の家で過ごすことが当たり前になった。最初は綺麗すぎて居心地の悪かった君の部屋も、今では僕の部屋よりも快適だ。
たぶん、僕が出入りすることで、僕のものが散らかっていたり、君が掃除する時間が取れなかったり、そういう事実もあるとは思うけれど、本質はそうではなくて、ただ君との距離が縮まったからだろう。

こうして一緒にいる時間が増えたことで、帰り道は前よりも寂しさが増した。
当たり前のように君が用意してくれる僕のための空間の匂いと、君の温度。
その温もりの名残が初秋の冷ややかな風に消されてしまう。

寒い日は苦手だ。
どうしたって、あの頃のことを思い出してしまう。
雪国で生まれ育った僕の幼少期の記憶は、どんより曇った空気に包まれた田舎風景の中で展開されている。父親は典型的な亭主関白で母親はとても地味な人だった。いつだって不機嫌そうな父親の顔色を窺う家族のあり方は不健全に思えた。会話のない食事。笑いのない休日。華やかな思い出などひとつもない。
そんな家庭から明るく陽気な子供が育つわけもなく、僕も母親に負けないくらい地味だった。
学校ではクラスが変わる度にこんなやついたかな?という反応をされ、新しい出会いが芽生えるはずもなく、勉強しかすることがなかった。
おかげで、僕はちょっとした有名大学に見事合格することになったが、それすら家族に笑みをもたらすことはなかった。母親は、僕が東京の大学に行くことを少し寂しそうにしていたけれど、出発の日まで淡々と変わらず会話のない家族だった。

冬になるとあの雪国の空気の匂いがするようで、億劫な気分になった。

東京に出てきてからも僕の周りが華やかになることは無く、相変わらず勉強ばかりしていた。
ただ、ひとつ違ったのは、此処では僕はそれほど優秀ではなかったという事実だ。
ただやることがなくて勉強しかしなかっただけの僕と、生まれ持っての天才的な発想と豊かな人間関係に基づく知恵を備えた連中との差は明らかで、そんな連中に僕が勝てることはひとつもなかった。

僕は自分の価値を高めることを止め、そこそこの生活に切りかえた。少しずつ友達を増やし、周りの皆と同じようにアルバイトをし、恋人を作ったり別れたりした。
そこそこの会社に就職をして、そこそこの成績をおさめ、咎められることも、褒められることもなく淡々と、誠実に毎日を過ごした。

そんな僕が。

君に恋をした。

とても、激しく。


君は、僕の知らない感情をたくさん知っているように見えた。
例えば、屈託なく笑う。誰とでも、すぐに距離を縮める。怒ったり、泣いたり、悔しがったり、とにかく忙しい人だった。
何よりも、君は何かを諦めたりしない。

君と一緒に仕事をすることになったのがきっかけで、君という人間を割と身近なところで観察することになり、気がつくと君を目で追っていた。
いつも君のことを考えるようになった。
次から次へと起こる仕事上のトラブルを君は毎回、全力で悩んで、真っ向勝負で立ち向かっていた。
いつしか僕もそこに巻き込まれて、これまでにないくらい真剣に仕事をした。
けれど2人で企画をした新商品は、クライアントの意向によりあっさりと白紙に戻り、僕達の苦労は水泡に期した。僕は、悲しくないフリをした。
挫折に屈するのが嫌だったから。
僕達の企画がダメなんじゃない、クライアントの選定基準にたまたま合致しなかっただけだ…。
そうやって、上手くいかなかった事実から目を背けた。
だけど、あの時、君は躊躇いもせずに泣いていたね。
いいものを作ったから、余計に悔しい。
こんなに頑張ってもまだ、価値がないと言われることが、悔しくて仕方がない。
そう言って憤りを見せていたかと思いきや、次の瞬間には君の目から涙が溢れて止まらなかった。
そして最後に僕に向かってこう言った。
「こんな時まで冷静でいることに、意味はあるの?」

全力で泣く君のその言葉が、とても痛くて、
だけど、とても温かくて、僕は君と一緒に泣きたい気分になった。この人と一緒に生きたいと、思った。


それから程なくして、僕達は付き合うことになった。


相変わらず君はいつだってたくさんの表情を僕に向けて、僕の心に入り込んでくる。

だけど、僕は君に恋をして、初めて孤独を覚えた気がするんだ。
君の周りにはいつだって色んな人が取り巻いていて、その誰とでもすぐに仲良くなる君がとても遠くに感じることがある。なんで君は僕を好きだなんて言うのか、本当に分からない。
不安、猜疑心、自分への不甲斐なさ。
そういうものが僕の孤独を助長した。


君と一緒にいられる、この日々が続けばいいのに。


もしこの先、君の手を離さなければ行けない日が、来るとしたら、その時こそ、君が教えてくれたように、

僕は…思い切り泣くのだろう。

泣いてみたいような気持ちになりながら、
そんな日が来ないことを

僕は信じて、今日も家路につく。



読んでくださるだけで嬉しいので何も求めておりません( ˘ᵕ˘ )