僕ひとりが温厚になったところで、揉めごとがなくなるわけじゃないという諦念
僕は、父の遺伝か、特に幼少期は癇癪を起こすタイプで、たとえば塾の先生と怒鳴り合いの喧嘩をして、途中で家に帰っちゃうとか…。よくありました。
ただ、このままだと一家の主が気難しい。それによって他の家族が悲しむ。この構図・歴史を繰り返すし、何よりも自分自身がしんどい。
根から温厚だった母方の祖父を見習って、家族のバランサーとなって温厚に生きようと考え始めたのは、中学校の終わりだったと思います。
癇癪を起こしやすい自分を「柔らかく優しい手触りの生地」で包んで、家族の温厚担当をつとめる。そのスタンスはやがて、学生生活や職場においても、用いていくことになりました。
しかし、誰かが温厚になれば、物事は平和に進む。そんな簡単なことだったら、紛争など起こらないわけです。よくありがちなのが、
(1)「こいつに当たっても、逆ギレしてこないし怖くない」と当たり散らされやすい立場になること。
(2)相手の熱暴走に対して、平常心で解決策を練る僕との温度差を感じ、「なぜ興味を示さない! こっちは大変なんだ!」と怒鳴られること。
(3)「温厚な人は、なんでも私の希望を聞いてくれる・助けてくれる」を勘違いし、それが実現しないと分かると、癇癪を起こすこと。
この3つは頻出パターンです。
そして温厚という生地を身にまとっていると、「とりあえずこういうときはコウタくんに連絡してみる」と信頼してもらえるようになる利点はありますが、一方で、窓口となりコミュニケーション量が増えるほど、混沌や衝突に遭遇するリスクも高まる、嫌われ者になりやすいのは、実は悩みの種です。
温厚になれば、少しでも家族や職場の関係は良くなる・・・。もちろん無意味ではないし、非常に価値ある生きる態度だと思いますが、不必要な争いを激減させ、僕のストレスが減り、傷がいえるほどの効果があるかというと、そこまでではありません。
幸運なことに、職場では温厚でクリエイティブでお互いを尊重しあう関係の仲間が何人もいますが、彼・彼女たちを見ていても、「結婚10年、彼は温厚だけれど、やはりうまく行かないことは多いんだろうな」というエピソードを雑談で耳にすることはあります。
温厚になっても終わらない。
むしろ、そのスタンスゆえにナメられて標的になっているのではないかという被害者的感覚。
なにかトラブルが起きるたびに、温厚に生きることに挫折し諦念を感じますが、それでも「柔らかく優しい手触りの生地」を身にまとって、また温厚担当に戻るのです。温厚で未来はつくれる、とひたむきに信じるといったらカッコつけですが。
あるとき、職場の社員研修でコアスタッフ同士を観察して、お互いどんな人か話してみようというワークショップがありました。そのとき、当時の同僚は僕を「社内のバランサー」だと考えていると。さまざまな部署、ステークホルダーの様子を見ながら、その瞬間にどんな態度で何に貢献するかと考え続けているのが僕だと言ってくれました。
すごくありがたい指摘でしたが、それはビジネスを円滑にすすめる目的で選んだのでなく、幼少期から両親の緊迫に直面してきたトラウマから来るメンタルモデルなのではないかと思います。
温厚な世の中になってほしい。でも、たぶん、世の中みんなが温厚になると、指摘されるべき諸問題が解決されなくなりそうですし、怒る・怖い人も必要なのは確か。
問題なのは、ハラスメントを含む暴力でしょうね。それを切り分ける。そして感情ではなく、教育〜改善のコンテクストで指摘し説教をする。その説教役が怖い。理想としたいリーダー像、父像です。
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