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2.25 夕刊紙の日

それはやたらと団地の多い地区だった。
夕焼け空の下を、私は自転車に乗って夕刊を運んでいた。
自転車の前の籠には、まだたくさんの夕刊が挿さっている。それを見る度に速まる動悸を私は押さえられなかった。

ダンジョンのような団地の間を行ったり来たりしながら、私はもうどの団地のどの家のポストに夕刊を届ければいいのか分からなくなっていた。
本来であればそんな訳はない。私はもう五年以上もこの地区で夕刊配りの担当をしている。
しかし、きょうの夕暮れはいつもと世界が違って見えた。
朱色の空に朱色の雲と、朱色に照らされた木々と、その下にある朱色の砂場と朱色の遊具。
影になった真っ黒の団地はどれもこれも同じ大きさ、同じ高さで私の上に覆い被さろうと首を伸ばし、混乱した私の脳をますますとろけさせる。

どこへ向かえばいいのか。確かあそこは県の公務員宿舎だったか。あちらに見える貯水槽が丸いのが郵便局員の住む団地だったか。分からない。区別がつかない。私は完全に迷い人と化していた。
まだ二月だというのに、焦りから額にたっぷりと汗をかき、せわしなく辺りを見回した。

朱色の角を手をつないだ親子の影が曲がって消えた。私は追いかけて道を尋ねようとしたが、ちらりと見えたその親子の姿はやはりただの影にしか見えず、怖くなって角を曲がるのをためらって止めた。
私はまるで朱色と黒の世界に置き去りにされたようで、心底心細くなった。
自転車の前籠に挿さった夕刊は減らない。
背筋が寒いのに、ペダルを懸命にこいでかいた汗を拭っても、次々に吹き出してくる。それはまるで、私の恐怖が毛穴からにじみ出ているようだった。

段々と珈琲色の夕闇が近づいてきた頃だ。
黒い塊だった団地に、にわかに灯りが点り出した。

ーああ、人がいるのだ。

少なくとも、灯りのついた部屋の中には。
私はそこでようやく、どこかへ抜け出そうと必死に動かしていた足をゆるやかに止めることができ、肩で息をしながらその蛍のような灯りたちを見上げた。
その灯りが点き始めると、悪魔的な朱色は徐々に力を失い、珈琲色の闇に夕飯の匂いが漂い始めた。

「助かった」
団地の側面にかすかに浮かび上がったA棟という文字を見つけて、私はようやく現在地と夕刊を届けるべき場所を思い出した。

それを認識すると同時に、団地に住む人々の営みがざわめきのように溢れだして、私はついにひとりぼっちの夕焼けの国から抜け出すことが出来た。

まだ薄く光る星空の下に立ち並ぶ団地の向こう。
地平の近くで朱色の夕日の名残が悔しそうにその火を消した。
私は自転車のライトを点けて、珈琲色の闇の中、残りの夕刊を運ぶためにまたゆっくりとペダルを漕ぎ出した。

2.25 夕刊紙の日
#小説 #夕刊紙の日 #団地 #自転車 #JAM365 #日めくりノベル

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