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2.6 抹茶の日

京都の寺に一人で観光に行った時のことだ。
休日にもかかわらず、その寺はしんと静まり返っていた。
入り口にある古びた木の立て看板には、どなたもご自由にお入りくださいと達筆な墨字で書いてあったので、私は靴を脱いで中に入らせてもらった。
本堂に入ると静けさは更に痛いほどに変わり、誰もいないのに何故か私は足音を消して息を潜めた。
金色に輝く仏像が、冷たくも温かくも取れる眼差しで私を見下ろしている。私は深く息を吐きながら、その仏像に挨拶がてら手を合わせた。
不思議と雨のような音が耳に届く。
目を開けると、仏像の手の形が気になった。伸びた人差し指がどこかを差している。
先ほどまで全体しか捉えていなかったので、始めからそうだったのかは分からない。
金色の繊細な指先を辿り、その先にある物を見て私は息を飲んだ。
私の頭上に、龍がいた。
大きく身体をうねらせ、私の魂など一飲みにしてしまいそうなほどの気迫がある龍だ。
こんな恐ろしいものの下に立っていたとは。気づかぬことは幸福なことなのかも知れない。私は冷や汗を流した。
長らく止まっていた息を思い出したように細く吐き出す。
木板に描かれた龍は、抹茶色の鱗に赤い大きな口、白く豊かな鬣を持っている。
掠れて色が薄くはなっているが、きっと名のある人の描いたものなのだろう。
蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった私に、突然仏像が話しかけてきた。
「そこの方、どうなさいましたか」
目玉だけを動かして見た先に居たのは、静かに佇む坊主であった。
「いえ、あの、動けなくて…すみません」
坊主は、あぁ、とかやぁ、とか曖昧な返事をして私に近づくと、右の肩を少し強めにトンと叩いた。
私の身体が金縛りから覚めるように突然楽になる。
坊主はゆっくりと龍を見上げた。
「この龍は悪戯ものでして。たまにこうやって素直な心を持つ人に意地悪をするんです」
坊主はそう言うと私に向き直って微笑んだが、真偽のほどは分からなかった。
その日は帰り途に境内の茶室で休むことにした。
盆の上に出てきた抹茶はさきほど見た龍にそっくりの色をしており、添えられた干菓子は産まれたての卵に似ていた。
私は白昼夢でも見ているような気持ちで、その茶碗に手をかける。
寺の敷地を覆う空には、薄ぼんやりとした青色に一筋の白く長い雲がたなびいていた。

2.6 抹茶の日
#小説 #抹茶の日 #寺 #京都 #JAM365 #日めくりノベル

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