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8.26 パパフロの日

汗だくで乗り込んだ16時台のスーパーモノレールは、いつもの最終より俄然空いていて、車内の空気もクリーンだ。ただ、少しだけ肚のあたりに重いものを抱えている私の口からは、そのクリーンな空気を汚してしまうような長いため息が出た。
スーツの後ろポケットから取り出したハンカチで汗を拭くのもつかの間、ベビーカーを押した子供連れの女性が席を探して近づいてきた。すっと立ち上がり、営業で慣れたスマイルを向ける。
「良かったら、ここどうぞ」
女性は恐縮したようだったが、手を繋いでいた男の子が飛びはねながら席に収まった。
「すみません。ほら、お礼言って」
女性はしきりに頭を下げたが、男の子は靴のまま座席にあがって外を見始めた。周りの大人たちはその子を一瞥すると、迷惑そうに眉を潜めて知らないふりをする。
「俺が降りる駅すぐなんで。では」
頑張れ、お母さん。と心の中でエールを送り、違う車両に移動する。
いつの間にか私は、世のお母さんに優しくなった。そして、ほとんど全ての子供が輝いてみえるようになった。どちらかといえば煩くて汚くて苦手な部類だったのに、自分の思い込みなどというのは人間の意識のほとんどゼロに近い部分の話であって、きっかけさえあればいとも簡単に覆ってしまうものなのだと知った。

✳︎ ✳︎ ✳︎

「帰りましたっ」
ゆっくりと開く自動扉の前で足踏みをして待ち、やきもきしながら開いた扉の隙間から駆け足で自宅に駆け込んだ。
「あら、本当に早い。お帰りなさい」
奥の部屋から声が聞こえる。まだ明るい外光が廊下まで漏れていて、平日のこんな時間に家にいる自分に不思議な気持ちになった。
部屋に入ると、私の帰りが宣言通りに早かったことに満足気に微笑む妻が、ふっくらとしたソファに半分埋もれるように座っていた。
胸もとには、柔らかいガーゼやレースをふんだんに使った産着にくるまれた赤子が目を瞬かせてこちらを見ている。ただ無意識に向けられているであろう視線でも、私の脳内を少しずつ阿呆にしていく。うっかりすると、赤ちゃん言葉で話してしまいそうになるのだ。一つ咳払いをして冷静な旦那様の威厳を保つ。
「ただいま。ちゃんと帰ってくるって言った通りさ。17時30分ぴったりだけど」
「いえいえ、パパやるわねぇ。根性無しで上司より仕事を先に抜けるなんて、一生無理だと思ってたけど」
娘のミロに言い聞かせるように言いながら、妻がミロの頬を柔らかくつつく。後半の部分は余計だが、何であれ娘の前で褒められるだけで、私はこの二人に何でもしてやりたい気持ちになる。
「だって、きょうは約束の日だからね。俺も頑張って帰ってきたんだから、任せてくれるだろ?」
慌ててスーツの上着を脱ぎ捨て、腕まくりをして両手を差し出す。だが、妻につれなくはたき落とされてしまう。
「何でだよっ」
「手を洗ってうがいをして。濡れるからちゃんと部屋着に着替えてちょうだい」
ほら、もうあと一歩よと妻が楽しそうに笑う。完全に弄ばれているようにも思うが、娘のためを思えば仕方がない。そして、この家のなかでの主導権は完全に妻にある。
家の中を走り回りながら、言われた通りの支度をこなす。
そして、ふたたび妻の前に戻って、両手を差し出した。右手の端が少し濡れていたのに気づき、急いで部屋着の裾で拭いた。
妻は笑いをこらえながら、わざとうやうやしい様子でミロを掲げた。
「よかろう。褒美である。顔にかかると嫌がるから、そこだけ気をつけてね」
ようやく抱くことが出来た我が子に目を輝かせながら、素直に何度も頷く。
「よし、きょうはパパがお風呂に入れてやるからな。お湯加減もシャンプーも最高だぞ」
本当は心臓が口から飛び出そうなほど緊張していたが、後ろから妻の付いてくる足音が聞こえてほっと胸を撫で下ろした。きょうは、娘を初めて風呂に入れる許可が出た。子育てをしていると、毎日何か新しい発見がある。何でもしてやりたいし、何でもしてくれている妻がより愛しくも思える。愛妻家とか、家族想いとかいうよりもっと深い動物的な本能みたいなものが満たされて嬉しくなるのだ。
真っ白なベビーバスにゆっくりと浸からせる。気持ちがいいのか一瞬ほっと息を吐いたような気がして、感動に手が震えた。
「俺、出世とかしなくてもいいかな」
こんな幸せな時間が得られるなら会社のなかとか、序列とか、そんな空気なんて読めなくてもいいかと強気になってしまう。本当はきょうだって、時短で帰るのにとても肩身が狭かったのだけれど。いつまで経っても男性の育児には社会的な理解が薄いままだ。考えてみれば、偉い人たちはみんなこんな素敵な体験が出来なかったからってひがんでいるのだきっと。
しかし、妻はとても現実的だった。
「いやいや、ちゃんと稼いでもらわないと困るわよ。この子もいつまでも赤ちゃんじゃないんだからね」
呆れたように腕を組んで見ている姿が鏡越しに見えたけれど、見なかったふりをして水滴のついたミロの頬を拭った。
「あっ、ねぇ笑った、俺の顔見て笑った気がする」
「はいはい、お湯冷める前に手早く洗う!」
いつだって、現実のなかに喜びはある。それを汲み取るか汲み取らないかは、選ぶことができる。(ただし勇気は必要とする場合がある)
ベビーバスの湯につけた両手から、幸せが沁みてくるようでまた私に笑みが溢れた。

826・パパフロの日
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