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知らない誰かは誰かの大切な人…なんて陳腐な言葉でしか表現できない私たちの摂理へ

物事は常に多面的であるのに、そのことを実感する機会は少ない
なぜなら私たちは主観で物事に触れるから

私の母方の再従兄弟は絶縁状態です
それでも、その実情を母が少し知っていて、私は彼らに何があったのか聞くことができます
名前も顔も住所も知らない、X君とY君です
それでも存在を私が知ることができたのは、母が情報源となる母体に近い親戚である為です
X君とY君は、私やその兄弟の存在など知らずに生きていきます
なぜならX君は親が自殺しているし、Y君の親は家族と縁を切っているからです
知る術がないからです

その反対に、父は親戚の詳しい話を知りません
きっと、田舎ですから、再従兄弟なんていくらでもいるのでしょう
それでも私たち兄妹はその概要を知りません

そこで気づきます
父や私たち兄弟の存在は、父方の母体にとっては得体の知れないX君とYちゃんであるという事を
向こうからすれば、存在などないものと等しいのでしょう
それすら、父がその母体から遠いために知り得ないのです
こんなに私たちの人生が回っている、それなのに彼らにとっては何もないのと等しいのです

社会単位で考えるとどうでしょうか
多くの人が、目の前にいる相手も各々の人生を回しているという事実をなぜだか忘れてしまうのです
知らない誰かは誰かの大切な誰か、なんて陳腐な言葉を羅列しないとその多面性を思い出せないのです
馬鹿げているでしょう
ついつい、自分がただのX氏であることを棚に上げて、全てわかったような気になり主観的な話を延々と繰り返すのです
その時周囲はどうだった?主観じゃないあなたはどうだった?その、話に出てくる嫌なやつは貴方にとっての嫌なやつなのか、はたまた貴方が嫌なやつと捉えたから嫌なやつと成り下がって私の耳に届いたのか?
私は知り得ません
その嫌なやつとされた人も、自分が嫌なやつとして位置付けられていることを知り得ません

物事は、常にその一面を切り取って捉える事しかできないのです
立場や考え方、行動、事実などは全て、主観で触れていくしかないからです
私たちにできるのは、
今自分が見ている対象の奥行きを自分なりに想像する事
もしくは、奥行きがあることを忘れない事
そしてその奥行きの作用で、角度を変えたら思いもよらない形状と映り得る事

人が人を傷つけることを防げないのは、皆がX氏でありまた自分もそのことを忘れ別のX氏の話を作り上げるためです
それはもうどうしようもないこの世の摂理と言えます

だからこそそのまま人の話を受け止めて終わってはいけないのです
誰とも認識し得ない、同じ物事を裏面から見上げている、X氏のその泣き顔を笑い顔を
想像するしかできることはありません
それ以外、私たちにできることはありません

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