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ダメ小説考

小説というのは、わたしは現在、弱いジャンルであると思っている。

魅力的なメディアとは言えない。

漫画の方が強い。今後はアニメの方が強くなっていく予感があるが、地力があるのは現在、漫画だと思う。

いったい何のことを言っているのか。

それは「物語を描くちから」のことである。

わたしは現代小説をよく読んでいるが、現代小説というのは(中にはベストセラーになるものもあるが)、漫画に比べるとたいして話題にならない。

もちろん漫画のなかにも、まったく売れない作品はあるだろう。さして有名でない作品を手にとると、売れない理由が分かることがある。しかしそれでも、かなりマシではある。

そう、現代小説よりは……!

現代小説は、実際、かなり実験的な内容が多い。
「売れ筋」を意識していない、と言ってもいい。
それは何故なのか、自分はちょっと分からない。

しかし一方、漫画はどうかというと、いかにつまらない作品であっても、ちゃんと「売れ筋」を意識して書いていることが分かる作品ばかりである。

その作品の魅力というと、小気味よいトークであったり、かっこいいキャラ・かわいい女性キャラ、あるいはスケベなハプニングであるとか、穏やかな日常であるとか、いろいろある。

ここからさらにベストセラーになると、主人公の葛藤とか、大きなドラマとか、歴史考察の緻密なものとか、時には文学性の高いものも出てくる。

そういったものは良いけれど、売れない漫画が「売れ筋」を意識して書くことを「読者に迎合している」とか「金のために書いている」とか「低俗」だと言って非難する向きもあるかもしれない。

そういう人は、ひょっとしたら小説の方が好きかもしれない。わたしもそう感じたことがある。しかし、いまはそのようには感じていない。

物事には二面性があるかもしれない。
金のために書いている売れない漫画家のほうが、高尚なものを書いていると自負する小説家よりも、キラリと光るものを書いたりすることもある。

読んでみて納得のいかない現代小説が多いなか、ふと漫画に触れたときに、わたしが純粋に感じたことである。

いくつか例を挙げようと思う。

この作品がわたしにこの論考を書かせようと思った一作である。

この作品は、面白いことには面白いが、物語のルールの一つを大きく破っていて、おそらく漫画でそれをやったら、まったく見向きもされなくなるようなミスを犯している。

それが「役柄を無視した行動」である。

具体的にいうと、物語の中の探偵が、熱くなって敵役とケンカをする。事情を深く調べずに、自分のメンツにこだわって、事件を複雑化させていく。

探偵は「調べる者」という役柄がある。
だから事件に介入はするが、絡まった紐をほどいていく役柄であり、さらに絡ませる役柄ではない。

しかし、この作品は逆をやっている。探偵ホームズを思いだしてほしい。事件を解決はするが、自分で事件を複雑化させはしない。
しかし、この作品はまったくの逆をやっているのである。

もちろん、たまにはこういう小説があってもいい。いろいろな実験をするのは悪いことではない。

しかし、漫画で同じようなことをやったら、たぶん編集者に「これ、なにが面白いんですか?」と言われるだろう。
漫画は実験とかそういうのを求めていない。もちろん中には、そういう新しいものを好む出版社もあるだろうが、たいていは違う。ちゃんとビジネスになるかどうかの判断が下される。

それが正義なのか? はっきりとは言えない。そういった「消費志向」的な考え方が、作品を潰すこともあるだろう。しかし、何でもかんでも作家に自由にやらせて駄作を生み出し続けるのは、業界の衰退につながると感じる。

上の作品においても「役柄を無視した行動」の何が悪いのかと思う人もいるかもしれない。

しかし、こう考えてみてほしい。

桃太郎が、鬼ヶ島に行かなかったらどうなる?

桃太郎が鬼ヶ島にいかず、鬼にも人権があるとか、迫害をするのは現代思想に反するとか、そういったことを言い始めたら、どう感じるだろうか?

たぶんそれは「桃太郎でやるべき内容じゃない」と思うだろう。

まったくそのとおりである。

上の作品は「探偵ものだと思わせておいて、実は探偵らしいことをしない」というミスをしている。だったら探偵と名乗るな、と言われれば、それはまったく正当な批判であるといえる。

なぜかというと、読者は「期待をするもの」だからである。

探偵ものには「事件の謎を解く論理性」を。
桃太郎には「正義と孝行」を。
バトル漫画には「熱くなれるような設定や、キャラのかっこよさ」を。

ラブコメには「かわいい女の子と、クスっと笑えるような展開」を。
日常ものには「それ、あるある」を。
歴史ものには「高い教養と、重厚な歴史ドラマ」を。

それぞれ期待しているものである。
もちろんそれを裏切ってもいい。「裏切られた」という事実も読者にとっては魅力になることがある。
しかし、それにはいくつかの条件があり、その最大なものは、作者があえて「定石を裏切る」という仕掛けを自分から盛り込むことである。
書いていたら、たまたま読者の期待を裏切ってしまいました、というんじゃ、話にならない。これが駄作になる数多い条件である。

実際、これは駄作だと思ったときに一番多いのが、「読者の思考」をうまく読めていないという欠点である。

たとえば上の例でいうと、探偵というワードを一度使ってしまったら、読者はそれを「ミステリもの」だと考える。

それは当たり前である。小説は映像がない分、キーワードから物語の内容をイメージしていくほかない。それらは連想や類推ですべて繋がっており、作家はそれを完全に把握していなければならない。

そうして読者はだんだん冷静に事件の情報をチェックしながら、本を読んでいくことになる。
そんな時、探偵が犯人(の疑いがある人物)との口論で、逆上して、いきなり銃を抜いて撃ち殺してしまったらどうなるだろう?

いきなりそこから、探偵の逃亡劇が始まるだろう。

読者からすれば、???である。

探偵が犯人になるストーリーは、ないことはないが、それらは(駄作でなければ)緻密に計算されてのことである。

そういう作家は、読者に与える情報を、非常に緻密に計算している。
探偵が正義の執行者だと思っていたら、だんだん怪しくなってくる。すると、もう一人の「真の探偵」が現れ、主人公の罪を次々と暴いていく。

探偵は逃げるかもしれない。読者は驚きっぱなしである。しかしその驚きが「がっかり」ではなく「心地いい」のはなぜか。
それはそのルートが、作家の綿密な計算によって用意された、美しいエンターテイメントルートだからである。

派手でキラキラしていて、美しいものに満ちているから楽しいのである。
しかしこれが、たまたま作者のウッカリによって引き起こされた事実であったら、読者は心底ガッカリすることになる。

煌びやかな演劇の幕間で、着替え中の、ひょっこりステテコを履いたおっさんの俳優がちらっと見えるようなものである。

それが興ざめなのは、プロによって配慮されたものではないからである。

上記の例は、一例に過ぎないが、ほんとうはもっといろいろな「読者を置いてきぼりにする」ミスがはびこっている。
しかし、なぜなのだろうか?

なぜ現代小説は、そういった基本的なミスをたびたび起こしてしまうものなのか?

それは、わたしにはちょっと分からない。
いろいろな理由があると思うが、不完全を承知で言うとしたら、それは「小説」というメディアの形態が持つ病と言えるかもしれない。

小説は「文学」ともいって、哲学・倫理学とともに人間の探求をするものである。
すなわちアカデミックな性格を(すこしは)受け継いでいる。そんなもの、どのメディアにも言えることじゃないかと思うが、エンターテイメントの柱を背負っている漫画・アニメ・映画・TVドラマからすれば、小説はどこか毛色が違うものだと言えると思う。

だから、作家は「芸術文化の一端をになっている」という自覚があるものだと思うし、そうでないとすれば、わたしは何故小説家になるのか分からない。

もっとほかにいい職業はあるし、今あるものを再生産するだけで満足するのだとしたら、たぶんAIにでも小説を書かせた方がマシだ。

だからだろうか、(最初に戻るが)現代小説には実験的な内容が非常に多い。
安定志向である漫画の「売れ筋」を意識した書き方とは大違いだ。

実際、いま面白いと感じる現代小説家たちは、みんな「売れ筋」通りに書いていると思う。

たとえば、池井戸潤先生は、非常にドラマチックな描き方をする。
その中で描かれているのは「大人の熱い情熱と友情、信義」であり、これは(嫌味な言い方になるが)大衆の望むものに合致している。

また伊坂幸太郎先生は、とにかくタランティーノ流の犯罪映画っぽい雰囲気がウケている。逆にそれ以外は、固定ファン以外たいして読んでいない。

角田光代先生は、女性の社会的に置かれた状況を、どうしようもない環境を、詩的に描くのが上手い。
たいてい女性作家は、異性蔑視に動いていくことが多いが、角田先生はそうしたことをしない知的な作家であると思う。

朝井リョウ先生は、若者の不安定な感情を描くのが非常にうまい。
似たような作家だと、安易にヤンキー・アングラな世界に持っていこうとするが、その「かっこよさ」を描くだけで満足してしまう。
しかし、朝井先生は主張を貫徹する。若者の不安定さを、そのままぶつけてくる。しかし決して生ぐさくしない教養の高さが見える。

森見登美彦先生は、その明治文学調のかた苦しい文体とユーモラスなコメディが、独特なギャップを生み、それが非常に面白い。京都の風景の描き方が非常に詳細ではあるが、押しつけがましくない、教養を押しつけてこない「軽さ」がある。

わたし自身が現代小説のマニアというわけではないので、知識はそれほど多くなく、この程度しか面白い作家が浮かばない。

が、これらの作家たちはどれも、ある程度「売れ筋」通りに描いている。もちろん中には、自我を出し始めて、とたんに面白くなくなる作品も、同作家たちにはある。

自我がいけないというのではない、どんどん実験していくべきだと感じる。その中で「ダメな筋」と「いい筋」が分かるようになっていけばいい。しかし、その実験のレベルがあまりにもお粗末だと、とてもお金を払うに値しないということになってきてしまう。

実際、わたしは小説にお金を払うのは、かなり恐ろしいと感じている。
たいてい読んでいるのは図書館本で、その中で面白いと思ったものだけ書店で買うことにしている。
岩波文庫とか、評価がほぼ確定している古典を買うのにはあまり躊躇しないが、現代小説(特に1500円くらいする単行本)は頼まれても買いたくない。恐ろしすぎる。

下手な小説というのは、そこそこいいレストランで頼んだら不味いものが出てきた、ぐらいの失望感がある。物語が破綻しているような内容もあって、100円くらいの価値しかないな、と思うものもある。
余談だが、わたしにとって映画もそうである。アマゾンプライムなどで現代の邦画を片っ端から見ていたこともあるが、1800円以上払う価値があると思ったのはきわめてわずか。50本に1本くらいだった。

いい作品は5000円出してブルーレイディスクを買うのもやぶさかではない。しかし下らない作品にそこそこの金を出すのは馬鹿げている。
ましてや、そこでこれは「実験的作品です」などと言われても、ふざけるな、の一言しか出てこない。

だが、一方漫画には支払う価値のある作品が多いと感じる。

単純に絵がカワイイとか、女の子がエッチだ、とかではなくて、
単純にストーリーが面白いのである。

演出効果が理にかなっているものが多い。

ここではコレを見せて、あそこでは別のものを見せる。
読者は「〇〇だ」と感じる。だからこうして、次は読者に「××だ」という感情を抱かせる。
そういう計算は、ストーリーを描くにあたっては当たり前であるが、これを無視している作家は、小説にしろ漫画にしろ、成功しないだろう。

書きたいものを書いて、いけないのか、と思うかもしれない。
そうである。書きたいものを「そのまま」書いてはいけないのである。書きたいものを「面白く」書く必要があり、それが作家に求められているものである。
そのためには「読者がどう感じるか」の考察は絶対に必要であり、そのためにはまずその作家が「わがままな読者」になってみるしか方法はない。

しかし小説においては……アカデミックな内容を模索するという建前がある以上、「作家性」が優先されてしまいがちなところがある。
どう見ても面白さが分からないが、これが作家の目ざす「面白さ」なら、尊重するべきではないか……?
その疑問が差しこまれる分、現代小説が潮流から外れていても許される要因になっているのだろうと思う。
その結果、くだらない小説が続々と生み出されているというわけだ。

漫画は、はっきりとつまらないものは「つまらない」と言ってしまっていい空気があると思う。
なぜなら、それはエンターテイメント、大衆向けの作品だから。
しかし小説は、どこか通俗作品と呼ぶのが憚られるようなところがある。
つまらないと思っても「それは、読みが浅い」とか「作者の言いたいことを理解していない」とか、「つまらないのは、あなたがバカだから」と言われてしまいそうな雰囲気がある。

わたしは、現代小説にこそ(また古典に対してであっても)そう言ってやってほしいと思う。
たとえば、古典であっても読まれなくなってきている作品はある。

ドストエフスキーなんかは、今でも非常に読まれている。

しかし、ロマン・ロランなんかは、もうほとんど誰も名前なんて知らないのではないか。

エミール・ゾラも、トーマス・マンも、フロベールも、恐らく読む人なんてほとんどいないと思う。
しかし、フランツ・カフカなら今でも非常に読まれている。

つまり、こうして古典もきちんと厳しいジャッジは受けている。
古典だから、ありがたがらなければならないというわけではない。どんどん「つまらん」と言っていいと思う。
わたしは夏目漱石の『猫』や『坊ちゃん』はまだ読む価値があると思うが、中盤以降の『門』とか『虞美人草』とかは読まなくていいと思う。

もちろん「なんか難しそうだからパス」は自由だが、もったいない考えだとは思う。あえて挑戦してみてもよさそうなのに。
ただ、こんなに苦労させて読ませておいて、面白いのはこれっぽっちか? と思わせるような古典も存在するから、仕方がない。

また個人的に、太宰治の『人間失格』は読む価値なんてないと思っている。それよりも彼の『津軽』や『正義と微笑』のほうがずっと感動的だし、太宰の人間性がしっかりと現れている。

またよく名前が挙がるトルストイの『アンナ・カレーニナ』だが、ああいった不倫ものより『戦争と平和』の方がよっぽど面白いし感動的である。

もちろん、『アンナ・カレーニナ』の方が文学的に価値が高いという意見は、分からないでもない。「アンナ」の性格描写は、他の文学作品には見られない緻密なものだ。
しかし、それだけで読む価値があるなどとは思わない。

たったそれだけの、どこぞの文学博士が言うような「文学的価値」のために、あの恐ろしくクドクドと長ったらしい、不倫ストーリーを読まされるのは、文学嫌いをどんどん生産しているだけで、そんなものより波乱万丈の『戦争と平和』の方がよっぽどドラマチックでおススメである。

また映画も同じである。

タルコフスキー『サクリファイス』

通人ぶって、わからないのにタルコフスキー映画なんか見なくていい。
それよりも面白い昔のアメリカ映画とかを見て、笑っている方がいい。

スタージェス『大脱走』

それで映画を好きになって、どんどん深くはまっていって、最終的にタルコフスキーやフェリーニ、ブレッソン、黒澤、小津……とたどり着くならいい。
ちなみにタルコフスキーの作品はどれも名作である。
だが、万人にお勧めするというわけではない。

現代小説も、もっとどんどん「つまらない」と言われるべきだと思う。
それくらい、とにかくストーリーの根本がぶっ壊れた作品が多い。これを定価で買った人は、ほんとうに可哀想で仕方ないと思うくらい。

もちろん作家たちがどんどん実験するのも、悪いというわけではない。しかしそれで金を取れるだなどと、思ってほしくないのも同じである。

漫画家たちは、おそらくもっと厳しい競争的環境のなかで生きている。だからこそ才能のある作家たちが集まるのだと思う。
もちろん漫画にもヒドイ作品はたくさんある。しかし現代小説と比べてみると、なんでこれでお金がもらえているのか分からなくなるくらいにヒドイことが分かるだろう。

どうかもっと、現代小説が進歩していきますように。
さよなら。

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