『古代への情熱ーシュリーマン自伝ー』(シュリーマン著・村田数之亮訳/岩波書店)

「彼においては学問と人間とが分かち難いほどに結合してともに生長し、しかも大きな学問的成功と人間的完成とに達しているからである。」(p188)

 生きることと学ぶことが、ぴったりと重なり合っている姿。それは側から見れば、人間らしさがあり過ぎる故に、人間らしくない姿として捉えられることもあったんだろう。

彼にとっては学ぶこと以外の事柄については、自分の喜びから外れたものとして捉えられたのかもしれない。

そんな彼を、私は羨ましいと感じずにはいられなかった。(特に英語の勉強に苦戦している身としては、、、笑)彼は努力することに対して疑いもなく、それが確実に自分の夢の実現につながっていると確信し、実行していた。その姿は本当に生き生きとして、自分自身ということについては少し疎かになってしまう程、彼は自分自身だけを生きていた。

今私は10年ほど放置されていた、祖母が昔住んでいた家を、また再び使用できるように、仲間たちと共に改装している。先日は、庭の雑草に着手した。何年も生えては枯れてを繰り返していた場所は、かつて道だった場所の上に新しい土を生みだしていた。そのため、道を復活させるためには、道の上の土をシャベルで持ち上げて、移動しなけれないけない。

かつての道がどこにあったかを確認することでできて、初めて次に何をすればいいのかということを考えることができる。

そして、過去の事実を、今を生きる私達が否定することはできない。過去の事実とは、そこに存在し、触れることのできる物である。

過去の事実と私達の出会いは、常に新しい。出会いによってもたらされる心の動きは、私たちが自らの意思でコントロールできるものではない。

私にできることとは、自分を出会いの場所まで連れて行ってあげることだ。

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「伝記」というものに、本当に久しぶりに触れた。嫌な奇抜さではない、堅実な説得力のある輝きが、この本にはあった。どっかりと、心に乗っかってくるような、出会いの経験だった。

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