『鬼滅の刃』における死生観
鬼殺隊と無惨の死生観は心憎きまでに真反対である。すなわち鬼殺隊は悪鬼滅殺のためには文字通りその生命を賭すことを厭わぬ集団であり、片や敵の首魁鬼舞辻無惨は生き長らえることを至上目的とする生命体である。
この無惨、己が命を長らえるためには他の命をこれまた文字通り歯牙にもかけずに喰らい尽くす。ある意味でこれは「生きる」「生きたい」「生きねば」という生命体が等しく有する根源的渇望であって、これを求めることそのものに異を唱えることは、ある意味で自分自身を否定することに繋がるのであろう。翻って鬼殺隊はどうか。彼らの棟梁「お館様」こと産屋敷耀哉もまた、命に対して一切の容赦がない。「我が子」と呼ぶ隊士の死を柔らかなる声で数え上げ、最終決戦の開戦の狼煙を己と家族の命を諸共に散華することで上げるのである。
そう、またまた文字通り己ばかりか愛する家族の命すら肉弾として無惨に叩き付けるその有様は、「異常者集団」の棟梁に相応しい振る舞いであろう。片や「命を長らえる」ことにのみ邁進する生命至上主義者と、「無惨を斃す」ことにのみ邁進し、己の命すら省みない、「必ず敵を討つ」ことを目的とした一種の武士道的尊厳至上主義集団。なるほど、無惨が心底嫌悪する気持ちも分かる。現代日本に生きる者が警句を鳴らしたくなる気持ちも分かる。しかし果たして無惨の言に理ありや。私はなしと判ずる。
その所以は、ひとえに命あるもの無に帰するが世の習いであるからである。つまり、無惨の望みとはまさしく世の理に反する醜悪な欲望そのものであり、それは生ある者が等しく有する欲望でもある。さらに我々の肉体を存続せしめるものは、やはり文字通り「他の生命」に他ならない。
これを人類は忘却して久しい。つまり「鬼」とは「我々」で、無惨はその「生きたい」という欲望を極端に擬人化した存在でもあるのだろう。しかし、人間の命はたかだか100年が限度。皆いつか滅び去ることは必定である。これから逃げてはならぬ。
炭治郎が鬼に対して「逃げるな馬鹿野郎」「卑怯者」「責任から逃げるな」と鬼を相手に喝破する場面は、正しく現代に生きる我々に対するこれ以上ない程に抜き身の箴言である。我々は命終わる時をいつか迎える。しかし、日々生きる中でそこ真実に思いを致すことは希である。
そしていざ、その時を前にしたならば、誰もが怯え、悲しみ、怒り、「何故、自分の命が終わらねばならぬのだ」と「生き恥」を晒す。これは凡そ誰もがそうであろう。しかし、我々は忘れているのである。考えようとしないのである。故に無惨は「絶対に斃すべき敵」として描写される。
菩薩のごとき慈悲の心を持つ炭治郎が、劇中ついにただの一度もその情を傾けることのなかった相手が無惨である(半天狗もか?)。つづまるところ、鬼殺隊の悪鬼滅殺の刃は、我々自身に向けられていると受け止める余地があるのではないか。
作者の心根には、現代に蔓延る「生きること」「自分だけが生きること」「他者を喰らっても生きていきたい」という病み荒みきった異形なる価値観に対し、それを断たねば「恥をさらしたまま」生きねばならぬのだ、という、人間の尊厳のごときものそ知らしめんとする意図があったのではないか。
命は大切である。これは動かぬ理である。しかし、命は終わるものである。ならばこそ、限りある命の中で、恥ずべき行いをすることなく、誉れある生涯を過ごすことに「道」を見出すべきではないのか。鬼舞辻無惨ただ一人を滅すため、鬼殺隊は総力を尽くす。
無数の命が露と散り、血花を咲かせて果ててゆく。それほどまでに犠牲を払わなければ、我々の心に潜む根源的な欲望を断つことはできないのである。
しかしそれでも、己が身を鍛え、心を磨き、修行の毎日を送ることで、やがてその身は朽ちようとも、血が、心が、その想いを繋いでゆく。かくのごとき生命に具備された本当の美しさのようなものを活写したのが、『鬼滅の刃』という作品なのではないか。
誤字脱字ご容赦。自戒。(了)
2020年12月5日稿
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