梵天勧請と「言葉」について
梵天勧請というのがある。仏教の言葉である。菩提樹の下でさとった釈迦が、その境地をたのしんで、さ~てそんじゃあとは涅槃に入るのみ…という段になって、梵天、いわゆる神様が現れてこういうのである。「どうかあなたのさとりを他の多くの人々にも授けてください」と。これを聞いた釈迦は難色を示す。釈迦のさとりとは(私はさとってないので)ざっくりいうと、縁起の道理、すなわちあらゆることがらは因縁によって生滅変化し、固定的実体というものは存在しないとか、あらゆることがらをあるがままにうけいれることができる、とかいう境地を指すのであろう(ひじょ~にざっくりです)……と思う。しかしそれ故に、物質世界に生きている者にとってそれを会得するのは甚だ困難である。
というのも、我々は「言葉」によって自身を含めたありとあらゆるものを定義して暮らしているが、この「言葉」というのが誠にやっかいで、これがあるために我々は時には非常に高いレベルの思索を行うことができるが、それと同時に世の中のありとあらゆるものを「分別」してしまっている。すなわち「世の中をありのままに見る」「あらゆることがらをあるがままにうけいれることができる」という境地は、言語によって伝達することが事実上不可能(もしくは極めて困難)な言亡慮絶の世界であるからなのだ。先ほどの私のざっくりしたお粗末な「さとりの境地」にしたって、「言葉」にした時点で無数の反証が容易に生まれるに違いない。それがため、釈迦は「いや、無理」とにべもなく梵天の依頼をはねのけてしまう(スゲェ)。
ところがここで引き下がることなく、「そこをなんとか」と食い下がり続け、三度目にようやく釈迦は「ハァ~……しゃーなしやで?」ぐらいのテンションで説法を開始することにする。さりとて、誰にでも理解できるわけではない、という意思はかなり強固で、「誰なら良いか」と思案した末、かつて共に苦行に励んでいた五人の仲間達のことを思い出す(五比丘という)。「あの連中なら、長年一緒に修行してたし、まぁギリ分かるんちゃうかな」ということで、釈迦は最初の説法相手をその五人に定める。とはいえ、その元仲間達は苦行をやめて瞑想に耽っていた釈迦を避けていたが、久方ぶりに出会った釈迦の様子が一目見ただけで「アイツ……なんかスゲェ良い雰囲気になってない?」と気付き、釈迦の説法を受ける。ここに「仏教教団」が初めて誕生する。
以上、wikiもなんも見ないで書いたクッソ雑かつおぼろげな梵天勧請の全容でした。とまあそんなわけで、我々は容易に互いを、世の中を、あらゆるものを理解しあるがままに受け容れることなど不可能であると思われる。しかし、ならば誰とも口をきかずに孤独に暮らせばいいのかというとそんなことも不可能である。それ故に磨き抜かれた「言葉」を用いて意思疎通をはかり、時に争い、時に知己を得るのだろう。
しかしこの「言葉」というものの用い方にはことのほか慎重であらねばならないと思う。我々は互いを理解し合うために「言葉」を用いるが、お互いの用いている「言葉」がまったく同じ色や形をしているわけではない。というか、そんなことは極めて希で、余程体系化された限定的な世界観でも共有していない限り、完全に意思疎通することなど到底不可能と思う。それ故に我々は、「言葉」を交わすときは細心の注意を払い、相手の「言葉」を吟味しつつも、最も重要であると思われるのは、「アレ、ひょっとしてオレの言ってること、おかしいのかな?」と自分自身を懐疑することではないか。関係ないけど向井秀徳の『自問自答』は本当に傑作です。
Twitterという正しく釈迦のさとりを邪魔した降魔のごとく無数の「言葉」の乱立する世界の中にあって、「自分の言っていることは正しい」「少なくともまともなことを言ってる」と思い込むのは非常に傲慢かつ危険なことではないのか。逆に、「オッ、この人の言ってることは何となく自分の意見に近いな」とか「嫌いな部分もあるけど、言ってることには納得できるな」とか思う時もあるだろう。時には「オオーッ、この人すげぇ!そうかそういうことだったんだ!」という時もあろう。そんな時にもうひとつの危険が迫る。
「この人の言っていることは正しい!」と、その身も思考も「言葉」も委ねてしまうことだ。落ち着いて欲しい、その人は自分と何一つ変わるところのない、「言葉」の世界に生きる人間である。時には思考の範囲が重ならない時もあろうかと思う(なお、これを「レベルの差」と断じてしまうのはひじょ~に傲慢だと思う)。しかしそれならば、お互いに少しずつ、柔らかな勢いでボールを投げ合い、「あっ、ここか!」と適切な距離を見つけていけばよかろう。しかし、それとて容易なことではない。仮に対立する立場、意見であったなら、さながら大海を挟んで大砲を撃ち合うことになってしまう。ようやく互いの距離が適切なものとなり、思考の範囲が重なる頃には互いに傷だらけで、それ以降建設的な関係性を継続することは容易ではないだろう。「自分の言ってることを絶対視するな!」と言われて、「んなこと分かってるよバーカ!」と思う方も多かろう。私も多分そう思っている。そもそもこの駄文自体、ロクに推敲もしていない正しく「つぶやき」に過ぎないわけである。しかしそれ故に恐れてもいる。
そろそろ文字数が2000字を超えたのでこの辺にしたいが、ともかく釈迦が神の誘いすら断ってまでやりたくなかったことが「説教」、すなわち「他者を教え諭す」ことである、ということは改めてお伝えしておきたい。(了)
2020年5月24日稿
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