見出し画像

上総国「上総介広常」・資料

上総介広常(かずさのすけひろつね)

※画像 千葉県一宮町三長遺跡出土古墳時代平瓶
上総介広常「誅殺」(ちゅうさつ、罪をとがめて殺すこと)の理由
面頬2-正面L加納久宜 嘉永元年3月19日~大正8年2月26日(1847-1919)第4代上総一宮藩藩主。
「父」、立花種道(次男)。上総一宮藩主 加納久恒の養子。
慶応3年養父「加納久恒」の死去にともない家督を相続。明治2年(1869)版籍奉還により一宮藩知事。

明治17年(1844)子爵となる。明治23年(1890)貴族院議員。
明治27年(1894)鹿児島県知事となり西南戦争の荒廃の復旧に努めた。

前項では「加納久宜」公の輝かしい履歴と爵位を記述紹介したが、では、それが「上総国」と、どう結ばれるのか、という最大の難問に言及していない。

まさにそれは難問で、 桓武天皇によって決められた親王任国の「上総介」とはいったい誰なのか、という歴史の証明は、源頼朝から下された誅殺によって、さらに歴史の下層へと追いやられてしまった。

唯一の手がかり「天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)、いずれも桓武天皇の皇子であった」という記述で追っていくしかなかった。

そこで親王任国という大国の、主要国であった「常陸国」についての資料では、どのくらい収集できるのか、すぐさま検索を開始した。

常陸国 歴代守
常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。
常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。
親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介である。

律令による官位相当と定員

養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。
職員令が定める大国の定員は、守から少目まで各一人、計6人である。但し、宝亀6年(775年)には少掾二員・少目二員と増員している。
※掾(じょう)とは、日本の律令制四等官のうち三等官を指す。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。 概要. 特に大国と呼ばれる最上級の令制国には特に大掾・少掾が設置された。

国司には含まれない史生の大国における定員は養老令で3人だが、延喜式では5人である。他に国博士一人、国医師一人、学生50人、医生10人が定員として置かれた。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。

常陸守
文武4年(700年)10月 百済王遠寶
和銅元年(708年)3月 阿倍狛秋麻呂
和銅7年(714年)10月 石川難波麻呂
養老3年(719年)7月 藤原宇合
天平9年(737年)1月 坂本宇頭麻佐
天平18年(746年)4月 石上乙麻呂
天平19年(746年)9月 紀飯麻呂
天平勝宝4年(752年)6月 百済王敬福
天平宝字2年(758年)6月 佐伯毛人
天平宝字7年(763年)1月 藤原清河
天平宝字8年(764年)10月 石上宅嗣
宝亀八年(777年)10月 藤原小黒麻呂
延暦元年(782年)6月 紀船守
延暦21年(802年)1月 大原某を免
延暦24年(805年)8月 紀直人、卒
延暦24年(805年)9月 橘安麻呂
大同元年(806年)1月 下葛野王
大同元年(806年)2月 和入鹿麻呂
弘仁2年(811年)1月 菅野真道
弘仁5年(814年)7月 藤原福当麻呂
天長元年(824年)6月 佐伯清岑
天長3年(826年) 甘南備高直
 
常陸太守
親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
天長3年(826年) 賀陽親王
天長7年(830年)1月 葛原親王
承和元年(834年)1月 葛井親王
承和5年(838年)1月 忠良親王
承和7年(840年)1月 葛井親王 再任
承和11年(844年)1月 葛原親王 再任
承和15年(848年)1月 時康親王
仁壽3年(853年) 仲野親王
斉衡4年(857年) 人康親王
貞観2年(860年)1月 賀陽親王
貞観6年(864年)1月 惟喬親王
貞観10年(868年)1月 惟彦親王
貞観14年(872年)2月 惟恒親王
貞観18年(876年)2月 惟彦親王
元慶4年(880年)1月 時康親王
元慶8年(884年)3月 貞固親王

常陸介
天長3年(826年)に常陸国が親王任国とされてからは、「常陸介」が実質的な実務上の最高位であり、官位は養老律令の官位令が定める大国の官位相当の介の正六位下ではなく、従五位以上であることに注意する必要がある。 なお、源氏物語に登場する架空の人物に常陸介 (源氏物語)がいる。
大伴弟麻呂 - 783年(延暦2年)任官。
藤原緒嗣 - 791年(延暦10年)から797年(延暦16年)7月までの間のいずれか。
藤原維幾 - 平将門の乱発生時の国司。
源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。
藤原実宗- 1107年(嘉承2年)前後
平家盛 - 1147年任官
平頼盛 - 1149年(久安2年)任官、1158年(保元3年)中務権大輔兼任として再任。
平経盛 - 1156年任官
平教盛 - 1160年任官
島津忠景 - 1267年(文永4年)から1295年(永仁3年)までの間のいずれか。
佐竹貞義 - 1287年(弘安10年)から1352年10月18日(正平7年/文和元年9月10日)までの間のいずれか。
(検索資料ウィキぺデア)

以上は「常陸国」また守、介についての検索回答であるが、こと「上総国」に到っては、容易に明確な検索結果とはならなかった。
そのことについては、千葉県という地勢がおおいに関係していた。それは隣国「源政権鎌倉幕府」駿河国という歴史の痕跡が関係していた。

「源頼朝」挙兵

治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。

『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とはある。尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である 。

同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。

広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。

寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。

この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。

しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。

広常の館跡はいまだに発見されておらず不明である。

上総介「広常」

上総介広常 (かずさのすけひろつね) (?―1183)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。
上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。
その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。

保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)に従う。
1180年(治承4)8月石橋山(いしばしやま)の敗戦後、安房(あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝(よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田(すみだ)川辺に参会、服属した。

以後、常陸(ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺(ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。[杉橋隆夫]

常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。 (参考 weblio)

親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。
叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

***

かずさのくにあわのこおりまつさと

己亥年(六九九年)十月上サ国阿波評松里」(つちのといのとしじゅうがつ かずさのくにあわのこおりまつさと)
南房総郷土史 資料提供:千葉県立安房博物館

国造~律令制

・主な古墳と官衙
 南房総は、古代律令制下では、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡の4郡が置かれていましたが、これらは、国造制によるそれぞれの豪族の支配領域が律令制に移行したものと考えられています。

 よって、それぞれの豪族の支配の拠点である居館と奥津城ともいう古墳群が想定されるわけです。

 2872現在のところ、古墳時代前期に遡る前方後円墳は安房地域では見つかっておりません。 前期の方墳が鴨川市の根方上ノ芝条里跡から見つかっており、愛知県や滋賀県といった東海・近江からの土器が出土しています。

 古墳時代中期になると安房地域にも本格的な古墳文化が展開されます。 まず、前方後円墳でしかも埴輪を持った古墳が2か所で確認されています。 富山の恩田原古墳と丸山の永野台古墳です。これらはそれぞれ平群郡、朝夷郡の領域となった地域に所在しています。

 安房郡の領域では、この時期特徴的な埋葬方法が確認されています。 館山市大寺山洞穴では、丸木舟を棺に使った舟葬がみられ、副葬品には短甲、直刀、盾、玉類、土器といった古墳の副葬品と遜色のないものが出土していることから古墳の被葬者に匹敵する人物の墓だと云うことが推定できます。

 また、館山市峯古墳からは、非常に珍しいトンボ玉といった特殊なガラス玉が出土していることが注目されます。グレーの地に赤と青で放射状の模様が象眼され、朝鮮半島経由で西域からもたらされたものと考えられます。

 古墳時代後期になると長挟郡の領域である鴨川市広場古墳群中の円墳から砂岩製の刳抜式舟形石棺が発見されています。刳抜式舟形石棺は、千葉県では唯一、鴨川から発見されています。 長挟国造の系譜の首長墓である可能性が高いと思われます。

 館山市の翁作古墳からは環頭飾大刀が出土しています。 平砂浦海岸を望む場所に造営された海との関連の深い首長墓であると思われます。

 こうした古墳時代の豪族、国造の支配領域が律令国家の郡へと編入されていきます。
 安房国は、養老2年 (718年) 5月2日、上総国の平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて成立しています。しかし、天平13年 (741年) 12月10日に上総国に戻されますが、天平宝字元年 (757年) に再び安房国となりました。

 645年に蘇我入鹿が暗殺され、翌年の正月「改新の詔」が出たとされている、いわゆる「大化改新」がありました。
改新の詔の第2条「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河」には、「郡」という字が使われていますが、「評」という用例もあることから、この詔は実際には出されていないのではないかという意見が、かねてからありました。
これを「郡評論争」と言いますが、藤原京から発掘された木簡には、まだ郡を意味する文字として、「評」が使われていました。 このため、改新の詔は後世の創作を含んでいるという評価が下されたわけです。

 この「郡評論争」に決着をつけた記念碑的木簡が、藤原京から発掘された木簡(藤原宮跡北面外濠出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)「己亥年十月上挾国阿波評松里(つちのといのとしじゅうがつかずさのくにあわのこおりまつのさと)」という、安房地域から都に運ばれた荷札木簡でした。
己亥年は、699年(文武3年)にあたりますので、701年の大宝律令施行以前は、国-評-里といっていたことが明らかになり、「改新の詔」が収められている『日本書紀』の記述が701年以後の書式で書かれていることが明らかとなりました。
 
 ちなみに、715年(霊亀元年)に敷かれた郷里制(ごうりせい)では、それまでの里を郷(ごう)と改称していますので、国-郡-郷-里といった行政区分になりました。

 平城宮出土の木簡には、安房、上総の国名の推移を示す次のような資料があります。
「安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月」(722年)
「上総朝夷郡健田郷戸主額田部小君戸口矢作部林調鰒六斤○/卅四条/○天平十七年十月」(745年)

 ここまでの古代安房地域の国名の推移は、以下のとおりです。
 
養老2年 (718年)5月1日以前 上総国
養老2年 (718年)5月2日~天平13年 (741年)12月9日 安房国
天平13年 (741年)12月10日~天平宝字元年 (757年)5月7日 上総国
天平宝字元年 (757年)5月8日以降 安房国

 安房国には、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡が置かれていたのですが、それぞれの国府、郡衙といった役所の所在地はどこだったのでしょうか。

 安房国府については、和名抄には平群郡にあると記載され、これまで三芳村府中に推定されてきました。
 しかし、これまで、発掘調査成果をはじめ、確定的な証拠は見つかっていません。安房国分寺は、館山市国分で昭和51~53年の発掘調査によって、金堂跡と考えられる基壇が確認され、布目瓦や三彩の獣脚などが出土したことから、安房郡域に所在したことが確定しています。安房国分尼寺は、今のところ所在地不明です。さて、安房国府はどこにあったのでしょうか。

 安房郡衙をはじめ、4郡の郡衙は、今のところ確定しているものはありません。しかし、発掘調査成果で可能性が指摘できるものがあります。

 館山市東田遺跡では、大型の総柱式の掘建柱建物跡が発見されており、しかも基壇建物へ建替えをしている様子があることから郡衙の租税としての稲を保管する施設である、正倉の可能性があります。東田遺跡は、館山市上真倉の汐入川南岸の段丘上に立地します。南総文化ホールから白浜方面へ抜ける国道410号バイパスの工事に先だって行われた発掘調査で発見されたもので、ちょうど白浜方面から丘陵部を通ってきた道が館山平野に出たところに位置します。周辺の調査次第では、安房郡衙が発見できるかもしれません。

 鴨川市根方上ノ芝条里跡では、奈良時代の掘建柱建物跡のみで構成される集落があります。郡衙としては、規模が小さく決め手は欠くのですが、郷クラスの役所である可能性もあり、官衙的色彩の濃い遺跡だと認識されています。

守護領国制
20051113_0824
・中世安房地域の武士たち
 安房国の郡名の変遷
古代 平群郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
平安時代末 平北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
鎌倉時代 北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
室町時代 北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
戦国時代 北郡 山下郡 丸郡 長狭郡
江戸時代 平郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡

平群郡域の武士
 鎌倉時代から室町時代
 国府周辺 安西氏
 山下郷(三芳村) 山下氏
 鋸南町から富山町にかけての海岸線域 三浦氏
   三浦氏が滅びると鎌倉幕府の役人二階堂氏
   二階堂氏が滅ぶと執権北条氏の惣領である得宗家の支配

 多々良荘(富浦町) 三浦一族の多々良氏
   鎌倉時代の終わり頃北条一門の大仏氏の家人本間氏
 南北朝時代
 岩井郷(富山町) 鎌倉府の役人二階堂氏の所領として復活

発掘された武士の館 鋸南町下ノ坊遺跡
 館山自動車道鋸南保田インター周辺で鎌倉時代から室町時代の館の跡が見つかっています。昭和63年に道路工事の事前調査で掘建柱建物跡、堀、井戸等が検出され、武士の館の一部であると考えられています。中国製の陶磁器や渥美、常滑、瀬戸等の国産陶器、カワラケ、曲物の桶や刳物の片口鉢等の木製品や漆塗りの皿などの珍しい遺物が出土しています。

 中国製陶磁器には龍泉窯系の青白磁の優品の破片等があり、館の規模も推定方一町あることから、有力な武士の館であることはまちがいありません。
 当時、鋸南町地域に勢力のあったのは、三浦氏または二階堂氏が考えられ、鎌倉の有力武士の房総での支配の拠点であった可能性があります。

安房郡域の武士
 平安時代末 金鞠(神余)氏・沼氏
 鎌倉時代の御家人 金摩利(神余)氏・安東氏
 群房荘 安西氏の本拠と考えられている

鎌倉時代の北条得宗家ゆかりの遺跡 館山市萱野遺跡
 館山市萱野遺跡からは、鎌倉極楽寺の瓦と同範の瓦が出土しています。極楽寺は、1259年に北条義時の三男重時が創建した寺であり、この瓦が館山から出土したということは、鎌倉時代に北条氏の支配が及んでいたことを示していると思われます。

朝夷郡域の武士
 平安時代から戦国時代 丸山川流域 丸氏
 室町時代 三原川流域の三原郷(和田町) 三浦一族の真田氏

長挟郡域の武士
 頼朝の挙兵以前 長狭氏 
         平家の家人だったため、頼朝の安房上陸のときに滅亡
 鎌倉時代 東条氏 東条郷の武士で、御家人
      白浜御厨(天津小湊町) 工藤氏
      伊豆で海上活動をする狩野氏の一族で、北条得宗家の家人
 室町時代 東条氏は在地の勢力として残る
      大山寺領(鴨川市) 千葉氏の進出

東条氏の館跡か 鴨川市西郷氏館跡
 鴨川市西郷氏館跡は、江戸時代初期の大名西郷氏の陣屋跡として知られていましたが、発掘調査を行った結果、中世の遺物も多数出土しました。中国製陶磁器の高級品もあり、中世の館と同じ場所に近世の陣屋が造営されたことが明らかとなりました。当時、この地は東条氏の勢力下だったと思われ、東条氏の館跡の可能性が高いと思われます。


画像2 032 千葉県一宮玉前神社上総神楽「龍神舞楽」  


幕藩体制
・発掘された近世大名の陣屋 西郷氏館跡
 慶長19年(1614)9月以降、里見氏がいなくなった後の安房は、館山城の受け取りにきた佐貫城主の内藤政長が管理しましたが、幕府は、代官の中村弥右衛門尉吉繁とその補佐をした手代の熊沢水三郎左衛門忠勝が、元和4年(1618)に安房国内全域の検地をやり直し、耕地の生産力が把握されると、幕府の支配から徐々に旗本や小大名に村々が配分され引き渡されていきました。

 その端緒は、元和6年(1620)で、西郷正員に長狭郡・朝夷郡で一万石が与えられました。西郷正員は下総国生実(千葉市)で五千石を知行し、慶長19年の館山城請け取りにもかかわった旗本でしたが、このとき東条村(鴨川市)に陣屋を設けて東条藩とし、ここで大名になったわけです。東条藩は元禄5年(1692)に信州上田(長野県上田市)へ移るまで安房での支配を続けました。これ以降寛永年間にかけて、五千石を越える大身の旗本を中心に所領が分け与えられていきました。

 鴨川市には、西郷氏館跡と呼ばれる遺跡があり、東条藩の陣屋の推定地とされていました。

 平成7年(1995)に発掘調査が行われ、堀で囲まれた郭が確認され、陶磁器などが多量に出土しました。陶磁器類は、17世紀代の年代観を示すもので東条藩の陣屋が存在した時期に合致し、東条藩の陣屋跡とみて、間違いないと思われます。
 しかし、不思議と16世紀代の陶磁器は出土していません。また、中国産の赤絵染付磁器といった当時の最新の器が含まれることから、どうも西郷氏は大名昇格にあたり、東条藩の陣屋に来る際に調度品を一新したような状況が出土遺物から想像されます。
(資料南房総郷土史)
(画像 平瓶は個人所有物として郷土資料館で保管)




#エッセイ #写真#コラム#オリジナル#note#仕事#日常#毎日更新
#大学生 #毎日投稿#東京#散歩#学生#酒#社会人#渋谷#観光
#カップル #休日#新宿#車#ホテル#女#飲み会#ドライブ#深夜
#表参道 #原宿#ゴミ#暇#都内#性欲#酔っ払い#終電後

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?