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柳田国男と「黄色い家」

遠野物語 解説

昨日の二部で、遠野物語書きましたが、意外としらない方面のようで、解説が必要だとおもいました。

そもそも、岩手県の遠野地方に伝わる伝説的民話を集大成したのが柳田国男だったのです。
じゃ、その柳田国男を知ってるかと云ったら、もし知ってるとしたらマニアックな部類のタイプだとおもわれます。

私も当初、その遠野という地方の「ざしきわらじ」が、どうして岩手の山奥にしかいないのか、と訝っていましだが、それを理解するのに随分時間が、かかりました。

というのは「民話」とか、「桃太郎」的な地方神話とか、一定のスタイルがあって、「朝廷政権」図解入り演劇神楽のパフォーマンスを描いたプロパガンダの要素が強いからです。

典型的なのが「天孫降臨」スタイルでアマテラスが岩戸に籠って、さて困ったなと、よろずの神たちが、よってたかって漫才パフォーマンスをして、裸踊りのストリップとか性交場面演劇をするのですが、それが日本全国に散在する神楽の古典的型式になっています。

それとは、まったく意を異にした地方民話「遠野物語」ですから、やはりそれを理解するのに手間がかかって思案しあぐねたものです。

そんな筋書きの伝承形態を研究し学術として発表したのが。国文学者の「折口信夫」でした。

■折口信夫、金田一京助 柳田国男が明治43年(1910年)に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日)は、民藝運動の主唱者である、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。主な受賞歴: 文化功労者(1957年) 文学活動: 白樺派; ‎民藝運動‎家。配偶者: 柳兼子(旧姓:中島) :血族 : 柳楢悦(父); 勝子(母); 嘉納治五郎など ウイキペディア

そして遠野物語を書いた栁田国男と、同時代に活躍した民藝運動家の「柳宗悦」がいて、当然二人は交友がありました。

二人の確執問題

対談のために柳田を招いたのは柳の側であるが、そのとき柳田はどうしたわけかたいへん無愛相で、柳の質問にあまり親切に答えようとはしていない。
当時その対談を読んで、そのような印象を受けた。
駒場の民芸館で、「民芸と民俗学の問題」をテーマにしたその対談会がもたれたのは、一九四〇年三月一二日である。沖縄から帰った柳たちは、方言論争の舞台を東京に移して、雑誌『月刊民芸』を中心にさかんに世論を喚起中であった。三月号はその第一回の特集号で、問題の推移を報告すると共に、「敢て県民に訴う民芸運動に迷うな」という沖縄県学務部の声明や、これに対する柳宗悦の「国語問題に関し沖縄県学務部に答うるの書」を、現地の新聞から転載するほか、この問題についての長谷川如是閑、寿岳文章、萩原朔太郎などの評論を紹介している。
わざわざこの雑誌のために書かれたものではないが、柳田国男の文章も、「沖縄県の標準語教育」という題をつけて転載されている。これは方言論争の起こる直前に、雑誌『コトバ』(一―三号、一九三九年)に「言語生活の指導に就いて」という題で発表された論文の一部を、柳田の許しを得て掲げたものである。この中で柳田は、沖縄の標準語教育を、「朝鮮半島の国語普及政策の、やや筋違いの追随が始まった」とし、「非常時民心の緊縮を機会に、一挙に標準語化の実を収めよう」としているらしく、「沖縄は又実験台の役」を勤めているとはげしく指摘している。
さらにまた柳田は、「島には昔から黒札という内法があって、次の違犯者の発見を以て我身の責任を解除してもらうという、その組織を此の禁止の上にも、利用して居るとは情ない話である。女の学校などではおしゃべりがまるでなくなった。何か言おうとすれば自然に違反になるからである」といって嘆いている。 一部抜粋


まあ、それはともかくとて、その1910年代というのは世界的にも、学術の活性した時代で、アインシュタイン相対性理論が出されたのが1905年のことでした。(絶対静止系のような定常的な計量に触れずに根本的物理法則を説明する試みがあり、1905年に論文発表された。ウイキペディア)

時代の黎明期、世紀の初め、というのは人間にとっても、溌溂とした心理的ハイテンションが沸き起こったのでしょう。

今日のテーマは、もう一つあって、昨日に続いて女性の立ち位置を明確にした記事をピックアップしました。

今話題、(といっても世間は知らない)長篇小説『黄色い家』という書籍発売の話しです。『黄色い家』川上未映子著

voice.「黄色い家の感想」


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