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世は「夢幻泡影」~有限悪影、か?

聖徳太子も孔子・老子・孟子なども、教科書に書かれている人物像で、試験に出題される項目の筆頭であり、それが居たか居なかったか、という設問はしていない。
いってみれば社会的一般通念上の知識であり情報であって、その国々の概念的な知識として形成されている。その人物が実際存在したか、しなかったか、という問題は研究対象になるが、アンチテーゼの提示設問となることはない。

それらを盲目的または学校教育的に丸暗記することが、スティタスであるし、かたちを変えてアイデンティティーになり得る場合もある。

それで、そのよくわからない「聖徳太子」とか「卑弥呼」の情報を検索して、一部、このnoteで1巻2巻、書いてみたが、よくわからない、という点で私も、読者も、よくわからなかったようだった。

そんなこともあって、これは止めた、と思っていたが、2.~3の閲覧があったので、追加で書こうと考え直した。

その前に、触り部分として終わってしまった(日本限定)サッカー顛末記の記事がダラダラ、あったので、そのネタで少し書いてみたい。

日本がスペイン、ドイツに勝利できた理由
英誌が解説「なぜ今回のワールドカップでは『番狂わせ』が相次いでいるのか?」 4min2022.12.5

ワールドカップ・グループリーグで日本がドイツとスペインという強豪を相次いで撃破したことは世界を驚かせた。しかし、今回の大会では、下位チームがトップチームを破るという予想外の展開が他にも多くあった。なぜそのような事態が起きたのか、英誌「エコノミスト」が解説する。
「互角」に戦ったグループステージ
カタール・ワールドカップのグループステージが終了した。そのなかで、もっとも記憶に残ったのは、数々の「番狂わせ」な試合だろう。

サウジアラビアはアルゼンチンに2-1で逆転勝利し、同国のサルマン国王は祝日を宣言した。そうして大会が活気づいた翌日、日本がドイツに2得点を決めて白星を飾り、その後、スペインにも逆転勝利した。選手の年齢が上がったベルギーはモロッコに完敗している。優勝候補のフランスもチュニジアに敗れた。さらにカメルーンはブラジル戦で終盤に得点して試合を制した。これらの「ジャイアントキリング」を起こした5つの国のうち、日本とモロッコはグループリーグ首位で決勝リーグに進出した。敗退したベルギーとドイツはすでに帰国している。今大会のグループリーグの全48試合での競争は、驚くほど差がつかなかった。グループリーグで3戦全勝したチームはいない。3戦全敗したのは、出鼻をくじかれたホスト国のカタールと、カナダだけだった。恥ずべき残念な試合もほとんど見られなかった。グループリーグを突破した強豪チームも、必死に頑張ってそれを実現したほどだ。
一方、この大会では奇跡のような瞬間はほとんど見られなかった。対セルビア戦におけるブラジルのリシャルリソンのオーバーヘッドキックや、対サウジ戦におけるメキシコのルイス・チャベスのフリーキックは特筆に値する。しかし、そのような素晴らしい瞬間は非常に少なかった。
なぜ、今大会は、強豪チームにとってこれほど厳しいものとなったのだろうか。

W杯でモロッコに負けたベルギーのカオスな夜
番狂わせが相次いだ3つの理由

1つ目の理由は、サッカーがよりグローバル化し、格下のチームのレベルが向上したことだ。無名だったのにベルギーを破ったモロッコには、英チェルシーFCや仏パリ・サンジェルマンFC、セビージャFCに所属する選手たちがいる。対ドイツ戦でゴールを決めた2人の日本人選手は、ブンデスリーガでプレーしている。カメルーンやガーナ、セネガルのアフリカの3チームも、ヨーロッパのトップリーグに属する選手で構成されている(一方、サウジアラビアは特殊で、国内リーグの選手によって構成されている)。2つ目の理由は、下位チームが守備を強化したことだ。2018年のロシア大会では19本中に1本のセットプレーが得点に繋がったのに対し、カタール大会の1週目の試合では、わずか50本に1本だけが成功した。1得点を生み出すのに必要なコーナーキック数も倍増していた。
3つ目の理由は、過去のワールドカップほどには攻められる人材が見られないことだ。現在、ストライカーの全盛期となる20代半ばから後半で、トップクラスのフォワードの選手があまりいない。そう言えるのは、決勝戦の2日後に24歳になるフランスのキリアン・エムバペと、イングランドのハリー・ケイン(29)のみだ。  以下記事割愛 日付2022.12.5 

やはり「タイムマシン」を何回、回したところで、順位は変わらないしシンデレラ姫は、永遠に貧困娘、という現実にかわりはなかった。

それで問題の成田悠輔さんは、ワールドカップサッカーカタール大会. を見ているのだろうかという疑問があったので動画を漁ってみたら、これまた「悪態小僧」の゛暴言自失゛で、云いたい放題(それでも動画広告収入として金になるとう特異体質)は、すべてのYouTuber垂涎の的なんだろうな。

それが、この動画だ
https://youtu.be/NAGXGKvMCqE?t=43
【成田悠輔】ワールドカップなんてバカが大勢集まって大騒ぎするだけじゃん。成田博士がフリートークで大暴走!【成田悠輔 切り抜き】W杯
#ゆうすけの部屋 #成田悠輔 #成田悠輔切り抜き

切り抜き、だけにしておかないと、こちらまで被害が及びそうなので、そこそこにしておきます。(ちなみにテレビサッカー放映権カタール大会350億円を払っても誰も得しなかったと関係者後日談)

それで、では成田悠輔准教授という権威者は、どこで何を真面目にやっているのか、ついでにウイキペディアで検索してみると、ひくてあまたの情報が大量にあって選別するのに苦労するほどでした。

その中の一つに「RIETI」という、よくわからない秘密結社みたいなのがあって、さらに奥に進んでみると、何だか国と結託して戦略を企んでいる、というタスクをしている組織(Google日本版か?)だ、というのが書いてありました。

何時ものウイキペディアにはこんなアンサーが書かれていました。

■とは、RIETI(独立行政法人経済産業研究所、英語名称:The Research Institute of Economy, Trade and Industry)は、2001年に設立された政策シンクタンクである。理論的・実証的な研究とともに政策現場とのシナジー効果を発揮してエビデンスに基づく政策提言を行うことをミッションとしており、これまで20年以上にわたる活動を通じて内外から高い評価を得ている。
「RIETI」名詞では古代ローマの地名として掲載された。
また地名として「Reate」
古代にはレアテ (Reate) と呼ばれ、ローマ人が勃興するより以前からサビニ人の主要な都市のひとつであった。伝説によれば、ローマの建国者ロムルスはサビニの女たちの略奪を行った。ローマ人とサビニ人の間に戦争が起こったが、最終的にサビニの女たちが両軍の間に入って停戦した。サビニ人の王ティトゥス・タティウスがロムルスとローマを共同統治することとなり、ローマ人とサビニ人の共存の歴史が始まった。サビニ人はローマのクイリナーレの丘に移り住んだという。紀元前290年、マニウス・クリウス・デンタトゥスに率いられたローマによって、サビニ人の反抗は最終的に平定された(第三次サムニウム戦争)。レアテは、アドリア海からアペニン山脈を越えて塩をローマに運ぶ道(サラリア街道)を扼する、初期のイタリア交通の要衝となった。レアテやアミテルヌム(英語版)(現在のラクイラ近郊にあった都市)の多くの土地が没収されてローマ人に分配された。サビニ人には投票権を除くローマ市民権が与えられた。紀元前268年にサビニ人は完全な市民権を獲得し、新たに相殺された2つの部族(トリブス) (Roman tribe) 、すなわち Velina と Quirina に組み込まれた。

それと、これがもっともな有力説としてあったのが眼鏡メーカーのロゴになっている企業名だった。

「RIETI」

おそらく、ソレとコレはまったくリンクしないし「めがね屋」が国家シンクタンクのパトロンという話しでもないし、よくある偶然の一致だった、という話しで、その商標登記とか著作権に関しては、紛らわしくないという点で係争対象とはならないと、余計な老婆心で遊んでみました。


2022年12月11日記事

民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に

民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に

成田 悠輔 客員研究員 RIETI 2001年設立 政策シンクタンク 記事

民主主義が重症である。21世紀の政治は、インターネットを通じた草の根グローバル民主主義の甘い夢を見ながら始まった。
だが現実は残酷だった。中東民主化運動「アラブの春」は一瞬だけ火花を散らして挫折した。むしろネットが拡散するフェイクニュースや陰謀論、二極化が選挙を侵食し、強烈なポピュリスト政治家が増殖した。
民主主義の敗北に次ぐ敗北。21世紀の21年間が与える第一印象だ。今や民主主義は世界のお荷物なのだろうか。それとも何かの偶然や民主主義とは別の要因の責任を、民主主義に負わせているだけなのだろうか。
この問いに答えるデータ分析を筆者と米エール大学生の須藤亜佑美氏で実施した。世論に耳を傾ける民主的な国ほど、21世紀に入ってから経済成長が低迷している(図1参照)。低迷のリーダー日本のほか、欧米や南米の民主国もくすぶっている。
逆に非民主陣営は急成長が目覚ましい。中国に限らずアフリカ・中東もだ。「民主国の失われた20年」は、中国と米国を分析から除いても、先進7カ国(G7)諸国を除いても成立するグローバルな現象だ。
図1:2001~19年の平均経済成長率、図2:100万人あたりのコロナ死者数

RIETI

この「民主主義の呪い」は21世紀特有の現象だ。1960~90年代には、すでに豊かな民主国の方が貧しい専制国より高い成長率を誇っていた。
富める者がさらに富む傾向が強かった。この傾向が21世紀の入り口前後に消失し、貧しい専制国が豊かな民主国を猛追するようになった。
かつて冷戦終結を目撃した米政治学者フランシス・フクヤマ氏は、民主主義と資本主義の勝利による「歴史の終わり」を宣言した。だが皮肉にもまさにその頃から民主主義と経済成長の二人三脚がもつれ始めたことになる。政治制度と経済成長の関係が根本的に変化し、新しい歴史が始まった。
そして2020年、新しい歴史が民主主義にとどめの一撃を加えた。コ〇ナ禍である。自由の女神が見守るニューヨークで遺体が積み上がった光景は記憶に新しい。対照的なのが、早々とコ〇ナ封じ込めに成功し3密なパーティーに興じる中国の若者たちだ。
米中の対比は「民主主義にウイルスが襲いかかっている」(米紙ニューヨーク・タイムズ)と思わせるほどだ。
20年に人命と経済をあやめた犯人もまた民主主義だ。民主国ほどコロナで人が亡くなり、19~20年にかけての経済の失墜も大きい(図2参照)。平時だけでなく有事にも民主主義は故障しているようなのだ。
なぜ民主主義は失敗するのか。筆者らの分析によれば、21世紀の民主国は投資鈍化に加え輸出も輸入も減り、製造業でもサービス業でも生産性の伸びが鈍化していること、そしてコ〇ナ禍の20年には網羅的で徹底した封じ込め政策を取り損ねていたことがわかった。
ウイルス感染やIT(情報技術)ビジネスの成長、ウェブ上の情報拡散など、21世紀の主成分には共通点がある。
常人の直感を超えた速度と規模で反応が爆発することだ。そこでは爆発が起きる前に、徹底的な投資や対策で一時的に強烈な痛みを引き受けられるかどうかが成功の鍵になる。
超人的な速さと大きさで解決すべき課題が爆発する世界では、常人の日常感覚(=世論)に配慮しなければならない民主主義は科学独裁・知的専制に敗北するしかないのかもしれない。世界の半分が民主主義という政治的税金を金と命で払わされているかのようだ。
では、重症の民主主義が21世紀を生き延びるためには何が必要なのだろうか。2つの処方箋を考えたい。民主主義との闘争、そして民主主義からの逃走だ。
闘争は、民主主義と愚直に向き合い調整や改善により呪いを解こうとする営みだ。政治家の目を世論よりも成果に向けさせるため、国内総生産(GDP)などの成果指標にひもづけた政治家への再選保証や成果報酬を導入するのはどうか。
政治家の任期や定年も有効かもしれない。先延ばしできない終わりがあれば、政治家は世論を気にせず、成果に集中できるかもしれないからだ。こうした政治版ガバナンス(統治)改革案に加え、選挙制度の再デザインの提案も数多い。
とはいえ実現可能性は心もとない。既存の選挙制度で勝つことで今の地位を築いた現職政治家が、なぜこうした改革を進めたい気分になれるのか。おそらく無理なのは明らかだからだ。
そう考えると、民主主義との闘争は初めから詰んでいるのかもしれない。ならば、いっそのこと闘争は諦め、民主主義から逃走してしまうのはどうだろうか。
国家からの逃走は一部ではすでに日常である。一例が富裕層の個人資産。ルクセンブルク、ケイマン諸島、シンガポールと、より緩い税制や資産捕捉を求めてタックスヘイブン(租税回避地)を浮遊する見えない資産は、世界の資産全体の10%を超えるともいわれる。
ここで思い出してほしい。民主主義も数々の失敗を市民に課す政治的税制になっていることを。ならば「デモクラシーヘイブン」もあり得るのではないか。
既存の国家は諦め、思い思いに政治制度を一からデザインし直す独立国家・都市群が、個人や企業を誘致や選抜する世界を想像してみよう。新国家群が企業のように競争する世界だ。
過激な妄想だと思われるかもしれない。だがその試みが実はすでに準備中だ。
どの国も支配していない地球最後のフロンティアである公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。
「海上自治都市建設協会」と呼ばれるもので、始めたのはビリオネアでトランプ前米大統領の公然支持者として名高いピーター・ティール氏らだ。お気に入りの政治制度を実験する海上国家に逃げ出す未来が具体的な建設案になり始めている。
フロンティアへの逃走はホモ・サピエンスの性(さが)だ。つい先日も米アマゾン・ドット・コム創業者ジェフ・ベゾス氏が宇宙飛行をした。飛行後の会見で同氏は「アマゾンの従業員と顧客に感謝する。宇宙旅行代を払ってくれたのだから」と口にして炎上した。ベゾス氏糾弾のキャンペーンは数十万の賛同を集めたといい、こんな味わい深い果たし状を掲げた。
「億万長者は地球にも宇宙にも存在すべきでない。しかし宇宙を選ぶのなら、そこにとどまるべきだ」
世界一の富豪といえど、宇宙移住はさすがに選択肢に入るまいといった口ぶりだ。だがもし富豪が私たちの社会の外部に逃走してしまったとしたら……。
20××年、宇宙や海上・海底・上空に消えた上級市民は、民主主義という失敗装置から解き放たれた「成功者の成功者による成功者のための国家」を作り上げてしまうかもしれない。選挙や民主主義は残された者たちの国のみに残る、懐かしくほほ笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。
そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命、ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の本命だ。そして私たちに問いかける。民主主義からの逃走との闘争はいかにして可能か、と。

■2021年8月20日 日本経済新聞「経済教室」に掲載


魏志倭人伝

そもそも魏志倭人伝とはどんなもの??
「魏志(ぎし)」とは中国にあった魏(ぎ)という国の歴史書のことです。
「倭人(わじん)」とは倭(わ)の国の人、つまり昔の日本人です。
簡単に言うと「魏の歴史書にある日本人についての記録」ということです。
ここで単純な疑問・・・なんで外国の人が書いた歴史書を頼るのでしょうか?倭(日本)の人が自分で書いたものを見れば一番正確なのでは??と思ってしまいますよね。

答えは簡単です。当時、倭(日本)には文字が無かったのです・・・泣 それなので、外国の記録を頼りにするしかないんですね。

魏志倭人伝という書物があるわけではない
魏志倭人伝という書物があるのかと思ってしまいますが、実はそうではありません。
魏志倭人伝は「三国志」の中の「魏書」の さらにその中の第三十巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」に書かれている「倭人条」の呼び名です。 図にするとこんな感じです。

つまり、魏志倭人伝は三国志のほんの一部に書かれた文章のことなのです。
文字数は約2000字程度しかありません。
つまり、倭(日本)のことだけを一生懸命に調べて書かれたものではないのです。このことは魏志倭人伝を読む上で知っておかなければなりません。

いつ誰が書いたのか
三国志は3世紀末の280年~290年代に書かれていますので、魏志倭人伝もその時期に書かれたものです。
陳寿という官僚が、実際に倭(日本)に行った人の話を聞き、それをまとめて記しています。
魏志倭人伝の中には「〇〇(当時中国にあった地名)に似ている」とか「(中国における)〇〇のような風習である」というような文章がいくつかあります。そのことから、魏(中国)側から来た人が見た倭(日本)の姿であると考えられます。なので、倭(日本)に対する偏見や先入観が入っているかもしれないということは十分に考えられます。
また、倭(日本)のこの部分を見てきて下さい、とか、移動した方角や距離を記録してきて下さい、という指示があった上で書かれたものではないと思われますので、魏志倭人伝に書かれていることは結構大さっぱで ざっくりしたものが多いです。
いつの時代の倭(日本)が書かれているのか
魏志倭人伝には「景初2年」などの年号が出てきます。これは西暦238年のことです。魏志倭人伝は280年~290年代に書かれていますので、書かれたときから40~50年ほど前の倭(日本)のことを書いています。かなり近い時代のことを書いていますので、そういう意味では信ぴょう性が高いのではないかと考えられています。
そのため、魏志倭人伝は邪馬台国研究で重要な材料として取り上げられているんですね。

当時の倭(日本)の状況
魏志倭人伝に書かれている時代の倭(日本)は↓こんな状況でした。
▲ 倭国という大きなくくりの中に、30ぐらいの国があると書かれています。今の県のような小さな単位で国があったんですね。
そして、その中に卑弥呼を女王とする邪馬台国がありました。一般に、卑弥呼が女王になる前までは争いがずっと続いていて、各国が卑弥呼こそが倭国の女王だと認めてからは争いがなくなったと言われています。
しかし、魏志倭人伝にははっきりと卑弥呼が女王になったことで争いがなくなったとは書かれておらず、「昔は争いが起きていた」というようなぼんやりとした表現でしか書かれていません。
魏志倭人伝には邪馬台国が、はるか遠くの魏に貢物(みつぎもの)を送り、これを喜んだ魏の皇帝は卑弥呼を倭(日本)の王だと認定する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を送ったとも書かれています。
わざわざ魏から称号をもらわなければいけない状況だったということは、やはり卑弥呼を女王とすることを不満に思う人たちがいて争いがおきていたのでしょうね。
ただ、魏志倭人伝には邪馬台国以外の国はどの国も「家が数千戸である」と書かれているのに、邪馬台国は「七万戸の家がある」と書かれていますので、かなり大きな力と権力を持った国であったことは間違いないようです。
では実際に書かれている邪馬台国までの道のりを見てみましょう。
邪馬台国までの道のり
魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりが書かれています。〇〇国があって、その南側に〇〇国があって・・・・と順をおって書かれていて、その国ごとの特徴・どれぐらいの戸数の家があるかなども書かれています。
まず、倭(日本)は東南の大海の中にあり、山のような島であると書かれています。これはまさに日本の特徴ですね。
そして、倭(日本)に行くには「狗邪韓国(くやかんこく)」から海を渡ると書かれています。これは名前から判断して現在の韓国でしょうね。
▲ そこから南東に進むと千里ぐらいで「対馬国」に着くと書かれています。これはもちろん対馬ですね。
一里は約3.9kmなので、千里は3900kmになります。韓国から対馬までは100kmほどしかありませんので大きなズレがあります。魏志倭人伝では魏から倭(日本)への使者の感覚で距離を書いているものと思われますので距離はあまりあてになりません。
※ ただ、「陸路を◯◯日」というような書き方をしている所もあり、その場合はある程度参考にできると思われます。
▲ そして海を南に進むと「一支国(いきこく)」です。これは壱岐島で間違いないでしょう。
▲ さらに海を渡ると「末盧国(まつろこく、もしくは まつらこく)」です。これは佐賀県北部の松浦半島の周辺だと考えられています。
▲ 陸路を東南に進むと「伊都国(いとこく)」です。これは現在の福岡県糸島市周辺だと考えられています。糸島市ではたくさんの遺跡も見つかっています。
▲ そこからさらに東南に進むと「奴国(なこく)」です。これは現在の福岡県北部地方だと考えられています。春日市などでは3世紀頃の遺跡がたくさん見つかっています。また、「那の津」や「那珂川」など「な」という地名からもその可能性は高いと考えられています。
▲ そこから東に進むと「不弥国(ふみこく)」です。これは現在の福岡県宇美(うみ)町ではないかと考えられていますが、名前がちょっと似ていること以外の証拠はないようです。このあたりからだんだん あやしくなっていきます。
▲ 次の「投馬国(とうまこく)」で完全にわからなくなってしまいます。というのも、投馬国に行くには南に水路を20日進むと書かれているのです。
宇美町は内陸部にありますし、大きな川もありませんので「水路」とどうしても結びつかないのです。
もし強引に水路を20日進むとしたら、鹿児島よりはるか南の海の上ということになります。
で、結局邪馬台国はどこ・・・?
そして次がいよいよ邪馬台国なのですが、さらに謎な展開に!なんと、そこからさらに南に水路を十日、陸路を一ヶ月と書かれているのです!!

(一部重複記事あり)


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構成編集//#つしま昇


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