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宅左衛門タヌキの教え

「たぬき」銀行の頭取になった宅左衛門(たくざえもん)


洲本市街地活性化センター 
 八狸委員会

城下町から宇山村の方への出入口をつくる ためにかけた橋が、高屋橋。その高屋橋の近 くにごりょうの森という、こんもりとした小 さな森があったんじや。
その森に宅左衛門狸が住んどった。

宅左衛門はな、何でもたくわえるのが好き でな。特に食べ物、木の実に木の芽、山芋に 里芋、大麦に小麦、浜で拾って来たいわしは 干してな、たくわえたんじゃ。
小金も少々ためとったらしい。ごりょうの 森の真ん中あたりに、大きな岩がいくつもあ り、その岩かげにたくわえてあったんじゃ。

「父ちゃん、父ちゃんこと、みんな けちんぼ宅左衛門や言うねん。ぼく、父ちゃんの悪□きくのいやや。」
遊んで帰ってきたぽん太は、宅左衛門に言う た。

「悪口言うもんには、言わしとけ。いまにわかるんやから。」

ぽん太には、宅左衛門の言うてることがわからん。 ほっぺをふくらまして外に出た。 そこへ、ぽん太の友だちのたん吉が通りかかったんや。

「ようぽん太、元気がないのう。どないしたんや。おまえも食べるもんないんか。」
「ううん。」
「そや、おまえとこのおやじは、食べ物をごりょうの森にためこんどるらしいから、腹へるわけないわな。」
「………。」
「三熊山でもいって、なんか食べるもんさがしてくるわ。」
「………。」
ぽん太は何も言わんかったというより、言えんかった。だまって高屋橋を渡っていくたん吉の後ろ姿を見送った。
ぽん太は高屋橋から洲本川をのぞいてみた。 ひびわれた川底に、少しばかりの水が流れているだけじゃった。

(雨が長いこと降らんから、魚もいなくなったし、木の実もならんのかな。
芋も大きくならんのかな。
食べるもんがなくて、たん吉の言うようにみんなよわっとんのに…。
父ちゃんは、ほんまになに考えとんのかな。)
とぼりとぼりと家に帰ったぽん太は、そっと木かげからのぞいてみた。どうやら、宅左衛門にお客さんが来ているみたいじゃった。ぽん太はそのまま木かげにかくれとった。
「助かりますわ。子ともがぎょうさん、家で、腹すかして待ってますねん。
今日お借りした芋に小麦、いつかまた返しにきます。」

宅左衛門に何度も頭を下げて、千草村の六兵衛父っつあんが帰っていった。
それから何人もの、じゃなかった、何ひき もの狸が、宅左衛門から食べ物をもらって帰っていった。
父ちゃんはけちんぼと違うんや、と思たんやけど、ぽん太は父ちゃんにはだだまってた。

その夜のことじゃ、ぽん太が寝ていると、 父ちゃんと母ちゃんの話しているのが聞こえ た。

「おまえさん、千草村の六兵衛さん、よろこんでたな。伊助さんも八兵衛さん、梅さんもな。
みんな、助かった、助かったって言うてな。」
「いつ何が起こるかわからんからなぁ。
宇山村でも千草村でも、村の人たちが集まって神社て雨乞いしたらしいよ。雨が降らんと畑のものが育たんし、田植えが出来らんからの。」
「なぁ、おまえさん。私らも雨乞いをしましょ。あの岩かげにある大麦も小麦も、村の人たちがこっそり森のそばにおいてくれたんやから。」

話を聞さながら、ぽん太は、いつの間にか寝息を立てとった。

雨の降らない日はまだまだ続いたんじゃ。
「おまえさん、食べ物のたくわえが残り少なくなってきたよ。山に行っても木の芽も見つからんのよ。」

おかみさんが心配になって宅左衛門に聞いたらな、宅左衛門は、
「町や村の人たちもわしら狸も、いっしょにひもじさこらえてな、助けおうて暮らしていたら、神様はちゃんと見てくれてるんやで。
ほうら、かえるもけろけろないて雨乞いしとるやないか。天からのめぐみを待つこっちゃ。」
って、言うんじゃ。

「ほんまや、おまえさんの言う通りやな。」
おかみさんは、うんうんってうなずいとっ た。そこからぽん太もようわからんけど、いっしょに
「うん」「うん」
うなずいたんや。

その日の夕方、すっかり空が灰色の雲におおわれたと思ったら、ぽつり、ぽつり、雨が降り出したんじゃ。
恵みの雨はな、三日三晩も降り続いた。 宅左衛門は、おかみさんとぽん太に言うた。 「こりゃ、みんなの願いが天に届いたんじゃ。

これで山は元気を取り戻す。川では魚がぴんぴんはね回る。畑の作リ 物はむくむく育ち、田んぼには水がた まり、もうすぐ、田植えが始まぞ。」
ってな。
「よかったね、おまえさん。」
「よかったな、父ちゃん。」

やがて実りの秋がやってきた。 ごりょうの森の宅左衛門の家に、芋だの木の実だの食べ物を抱えて、狸の仲間がやってき た。
「あの時は助かりました。わしは、たくわえるのがへたで、借りた分よりもよけいに持ってきたんやけど、あずかってくれんやろか。」

千草村の六兵衛父っつあんだけじゃなく、 伊助さんも八兵衛さんも同じことを言ってき た。

そこで、宅左衝門は考えた。

「いつ何が起こるかわからん。
わしら狸も町や村の人たちも、その日その日生きるのにいっしょうけんめいや。このたびのことでようわかったんや。

みんな少しづつ持ち寄って困った人をたすけるんや。

じゅんぐり、じゅんぐりや。

なぁ、みんなで助け合い講を始めようや。」

考えたことを、しばえもんやますえもん、ぶざえもんたちにも話すと
「そりゃええ考えじゃ。」 と、賛成してくれた。

宅左衛門は、今でいうたら、たぬき銀行の頭取になったんじゃ。淡路島中の狸、阿波(あわ)の狸も、助け合い講に参加したそうじや。

物語作者:木戸内福美(キドウチヨシミ)


2023年02月13日

コンテンツ・リテラシー

コンテンツ・リテラシー
J-STAGE
/書誌2007 年 32 巻 p. 61-72

本研究の目的は,コンテンツ・リテラシーとしての書く力の評価方法を明らかにすることである。その際自然主義的アプローチを中心として,学習者の書く力を伸ばすという視点から検討を行った。

教育評価のパラダイムは,歴史的な時代背景と密接にかかわりながら,繰り返し転換し,転換以前のパラダイムを含み込む形で,拡大・発展してきた。
1960年代に,教育評価において,科学的実証主義的アプローチから自然主義的アプローチへの大きなパラダイム転換が起こった。
これを機に,教育評価において,自然主義的アプローチにもとつく多様な評価モデルが登場した。グーバとリンカーンの「第四世代評価」はこの自然主義的アプローチにもとつく評価の中に位置つく。「第四世代評価」においては,評価者と被評価者との間で「交渉(negotiation)」にもとつく価値判断が行われる。
本研究では,教科内容にかかわる書く力の評価は,この「交渉」にもとづく評価としての「第四世代評価」の方法が適していると考え,国語科作文の評価と対比しながら,具体的評価方法の検討を試みた。

本稿は,イギリスにおいて1960年代から70年代にかけて進んだストリーミングの廃止から混合能力学級導入への経緯を考察するものである。

1960年代に入るまでの約30年間,イギリスでは子どもたちを能力別に分類するストリーミングと呼ばれる集団編成方法が一般的な学級編成方法であった。

この方法は1950年代後半になると,その拠り所であった知能指数理論への批判を契機に廃止の方向へと動いていく。

ノン・ストリーミング化と呼ばれるこの動きは,1960年代に進行していき,1970年代には混合能力学級編成がストリーミングに代わる学級編成形態として広がっていった。

こうした一連の動向で問われたのは,表面的には学級編成方法の問題,すなわちどのように子どもたちをグループ化するかという問題にみえる。しかし,実際にそこで問われたこととは,学級編成の問題というよりは,むしろ教授・指導方法の問題であった。

なぜなら,ストリーミングの廃止は混合能力学級の導入と同時に,ストリーミングを前提にして行われていた当時の指導法,すなわち一斉教授方法の問い直しを要求するものでもあったからである。
本稿は,この点に注目して能力別学級から混合能力学級への一連の動向を検討し,当時のイギリスの中等学校現場において問題となっていたことは,学級編成方法の変更ではなく,子どもの個に応じる新しい教授・指導方法の開発にあったことを示すものである。



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