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「失われた30年」タイムラグ 時を忘れて、夢うつつ

アーカイブ 切り抜き記事のコラージュ (画像 上野駅内撮影画)

30年も待たされて、ガラパゴス上陸
2022年12月29日 10:01記事

話題の映画「REVOLUTION+1」映画監督 「足立 正生」

安倍晋三元首相の銃撃事件で逮捕された山上徹也容疑者 2022年12月28日 09:17記事

この事件について、諸般の仮説はいろいろあっても、それが真実であるかどうかを証明するものがないという点で、すでに迷宮化している。

そうした状況下で「山上徹也」を犯人また容疑者と呼んでも、なんの指標にもならない。だとしたら、あるがまま、を記録するしかないだろう、というのが足立監督のスタンスであったと思われた。

さらに制作者「足立」氏の経歴が社会でも物議を醸しているが、それはまったく日本的な観点の「色眼鏡」以外の何者でもない。更に言ってしまえば、そうしたメディアの口車に載せられた「一般人の声」というのは、一つのムーブをつくるという恐ろしい起爆剤を秘めている。(こうした反体制的な書評また記事は、ここでは敬遠されスルーされることを念頭に記しておく。ちなみに今朝のnoteからの通知で19000のスキ記録、というのを受けた)~~~

不評を承知でアップした当該記事、予想通りPV下位で、殆どnote内耳目にされされることはなかった。その理由を、ここでその諸説を云々したところで始まらないがアルゴリズムらよって選別されたことは明らかだった。なぜか、その話題性からして、noteに相応しくない、とアルゴリズムが判断(決して人の手間ではない)したというのは自明だった。

年度末に相応しい記事の総決算として相応しい話題とはなにか?

師走だからといって、相応の話題があるわけではないが、それぞれ個人的には、感心事のニュースはあるだろう。私の場合は、そのちまた云う「ガーシ―」ドバイ配信だった。

そんな観点からすると、これから書く「ガーシ―」井戸端テーマは、長時間にわって社会の感心を集めて、人々に話題を提供したことになる。
その核心部分が「よくわからない」点で、むしろそれが注目されたのかもしれない。

■東谷義和(ひがしたによしかず)<50歳当選:1回目 ユーチューバー 比例代表287,714 (政党名票 834,995) 当選したものの、一度も国会登院しないという前代未聞の 行動に、当局も社会も頭首立花氏も、考いあぐねてしまい、「もう帰ってこんでいい」と立花氏はサジを投げてしまった、ようだった。

その後の経過と、なりゆきについては判らないし、なんともいえないが、私の視点としては、人事的な顛末は別として、法律的な解釈と措置は、どの方向に進むのかという懸念があった。

昨今、ネットリテラシーの言論界もさることながら、誰が、どこから発信しているのかがランダムで、話の内容によっては、そのことを考える必要も生じるという、ややこしい会話になっている。

また、今話題の成田悠輔さんの場合にしても、肩書は准教授になっているが、そこがアメリカの場合、日本国内で動画活動しながら、大学で講義をするという変則スタイルは、今日的コンテンツのリモートワーク、オンラインシステムが完備していて、それが条件になっているので可能だ。

それとおなしようなケースとして、ドバイガーシ―の場合とか、おなじフランス在住の「ひろゆき」の場合だったり、またシンガポールだとか、昔だったら外人発のケースが、日本人が外国からリモート配信するのが日常的になっている。それをグローバル化、と云えばそうなんだろうが、その比率が拮抗した場合、日本人同士が、他国間を介して交信するのをグローバル、と呼ぶかどうか、その定義もむずかしくなってくる。

そこに少子高齢化とか、国内出生率激減による若年世代先細り減少とか、わいわい騒いでいるわりに、なにも打つ手がないという惨憺たる状態は、誰の責任かといったら政府でもなければ社会でもない、当事者が結婚しない、そこに子供も生まれないという現実に、まるでブラックホールの巨大な穴が開いてしまった空疎感があった。

そこに「失われた30年」という金科玉条の定型句を、すっぽり納めて涼しい顔をしている経済界の重鎮たちは、その成田語録の牙城にとらえられて、狼狽するのが関の山で、机の前に積まれた書類の山の、登頂記録でもチェックするのが日課になっているという寂寥感は、他から見ても閉塞そのものでしかない。

その「失われた30年」というタイムラグは、どこが原因になっていたのかわからないという、言い訳はもはや通用しない。

その30年スパンというのは、ちょうどIT産業が大挙してアメリカから押し寄せた第二次黒船来航のようなもので、今日的なG・A・F・A+Mは、すでに国家的戦略として、それらを促成栽培していたことに日本は、しらんふりしていて、たまさか一挙に、それか上陸したとき、国内新聞アナログメディアが、軒並み大反対の水際作戦に打って出た。

要は、同じニュースであってもタブロイド判紙活字新聞と、たかだか20インチ四方のマス内に、ニュースもあれば音楽も絵画も小説も、後のテレビ仕様の動画YouTubeによっても、あらゆるジャンルを網羅する媒体の底力を、見聞することなど、おもいもよらなかった。

その時間スパンを、30年として括ると、まさにジグソーパズルの一片がピタッと収まることを、その頃では誰も予想しなかった。

そして今日、衝撃的なガーシ―の起こしたアクションは、そのジグソーパズルの二片目を探し出して、嵌め込んだという仮想スパイラルのような気がしてならないのです。

日本は、その30年空白をまるで「浦島太郎」のような夢心地物語として浮遊していて、海から上がった陸の孤島は、すでに他の人によって、覆い尽くされていた。と勘違いしている。(実際問題として中国が既成侵犯している)

「その他の人」、というのが誰なのか、それは云わずもなが、ガーシ―、ひろゆき、さらにより強固な弁者、成田悠輔のようなギリシア的吟遊詩人が、奥の院に鎮座する井戸端元老院議会の、ガラパゴス言語を、木っ端微塵に打ち砕くという、快挙を打ち立てたことはパラドックスとして万死に値するといってもいいでしょう。

年度末に相応しい記事の総決算として相応しい話題とはなにか?

師走だからといって、相応の話題があるわけではないが、それぞれ個人的には、感心事のニュースはあるだろう。私の場合は、そのちまた云う「ガーシ―」ドバイ配信だった。

そんな観点からすると、これから書く「ガーシ―」井戸端テーマは、長時間にわって社会の感心を集めて、人々に話題を提供したことになる。

その核心部分が「よくわからない」という点で、むしろそれが注目されたのかもしれない。(2023年6月10日付記事では、全容が暴露された)

■東谷義和(ひがしたによしかず)<50歳当選:1回目 ユーチューバー 比例代表287,714 (政党名票 834,995)

当選したものの、一度も国会登院しないという前代未聞の 行動に、当局も社会も党首立花氏も、考いあぐねてしまい、「もう帰ってこんでいい」と立花氏はサジを投げてしまった、ようだった。(その後も二転三転する)

その後の経過と、なりゆきについては判らないし、なんともいえないが、私の視点としては、人事的な顛末は別として、法律的な解釈と措置は、どの方向に進むのかという懸念があった。(結果は帰国逮捕)

ドバイガーシ―の場合とか、おなじフランス在住の「ひろゆき」の場合だったり、またシンガポールだとか、昔だったら外人発のケースが、日本人が外国からリモート配信するのが日常的になっている。
それをグローバル化、と云えばそうなんだろうが、その比率が拮抗した場合、日本人同士が、他国間を介して交信するのをグローバル、と呼ぶかどうか、その定義もむずかしくなってくる。

そこに少子高齢化とか、国内出生率激減による若年世代先細り減少とか、わいわい騒いでいるわりに、なにも打つ手がないという惨憺たる状態は、誰の責任かといったら政府でもなければ社会でもない、当事者が結婚しない、そこに子供も生まれないという現実に、まるでブラックホールの巨大な穴が開いてしまったような空疎感があった。

(これは私のネガティブ)な展望見解論として述べるが、奈良斑鳩、の聖徳太子時代にどんな政治システムがあって、その時代の経済は、人口何人くらいで国(豪族システム)の経済市場が動いていたのか、ということを知る必要があると思った。何かと憲法12条入試解答的なステレオタイプの知識で支配されているが、政治以前に一般貧民の生活レベル程度とか、貨幣はどの程度流通していたのかなど、そんなことは殆どしらない。

また国家国民(その時代にそうした括りの意識はなかったようだ)は、遺伝子レベルで「単一民族」であったのかどうかの統計も示されていない。その時代、舎人という地位の階級人が、政治に関与していた。

■下級役人。本来は天皇・貴族らの近習(きんじゅ)の意で,護衛を任務とした。律令制では貴族の子弟で天皇に近侍する内舎人(うどねり)下級官人や庶民の子弟で朝廷に勤める大舎人,同じく皇族・貴族に近侍する帳内(ちょうない)・資人(しじん),地方豪族出身で武官の兵衛(ひょうえ)などの総称。内舎人はまもなく高官,他は多年勤務して下級官人となる。ブリタニカ

などの特別な階級に属していた。それらが朝鮮半島からやってきた先進国エリートで政治を賄っていた)、と仮説するなら、案外、海外移民者によって日本が、形勢されたとするなら、現在の少子化は、それによって解消され、さらに次世代進化になり得ると考えられないだろうか。

その前の消失した30年を整理する

そこに「失われた30年」という金科玉条の定型句を、すっぽり納めて涼しい顔をしている経済界の重鎮たちは、その成田語録の牙城にとらえられて、狼狽するのが関の山で、机の前に積まれた書類の山の、登頂記録でもチェックするのが日課になっているという寂寥感は、他から見ても閉塞そのものでしかない。

その「失われた30年」というタイムラグは、どこが原因になっていたのかわからないという、言い訳はもはや通用しない。

その30年スパンというのは、ちょうどIT産業が大挙してアメリカから押し寄せた第二次黒船来航のようなもので、今日的なG・A・F・A+Mは、すでに国家的戦略として、それらを促成栽培していたことに日本は、しらんふりしていて、たまさか一挙に、それか上陸したとき、国内新聞アナログメディアが、軒並み大反対の水際作戦に打って出た。

要は、同じニュースであってもタブロイド判紙活字新聞と、たかだか20インチ四方のマス内に、ニュースもあれば音楽も絵画も小説も、後のテレビ仕様の動画YouTubeによっても、あにらゆジャンルを網羅する媒体の底力を、見聞することなど、おもいもよらなかった。

その時間スパンを、30年として括ると、まさにジグソーパズルの一片がピタと収まることを、その頃誰も予想しなかった。

そして今日、衝撃的なガーシ―の起こしたアクションは、そのジグソーパズルの二片目を探し出して、嵌め込んだというスパイラルのような気がしてならないのです。

日本は、その30年空白をまるで「浦島太郎」のような夢心地物語として浮遊していて、海から上がった陸の孤島は、すでに他の人によって、覆い尽くされていた。と勘違いしている。

三本足の「八咫烏」(やたがらす、ここでは黒)

八咫烏は、日本神話に登場するカラス。導きの神とされる。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。

八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。『古事記』では高木大神によって遣わされ、『日本書紀』では天照大神によって遣わされたと伝わる。

『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされるが、兄に鳴鏑で追い返されたとされる。

一方『日本書紀』では兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求め、兄には「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。」と言われ弓矢で追い返されてしまうが、弟はこれに恐れて「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」と言い、葉盤八枚に食べ物を盛って烏に献上した。
それで烏は神武天皇のもとへ戻り、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝えているなど、両書の伝承に若干相違がある。

その後『日本書紀』においてはその功が労われ、頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)となり、劒根は葛城国造となっている。なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。

また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは生玉兄日子命のこととされる。

熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。(旧尺貫法や古い測定寸は、それなり意味があり18㎝は楽器の長さ、その基本寸は古来楽器鶴の骨足の長さで9千年前の中国楽器)

三本足の意味

八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。
また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説もある。

しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われる。 元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある。 ウィキペディア

作家の林房堆氏著『神武天皇実在論』から引用させて戴くと「平田俊春教授は『神武天皇紀の紀年の意義』と『古代、中世における神武紀元の使用』の二論文を書いている。

その趣旨を要約抜粋すれば、「神武天皇の時代から少なくとも十数代は、全く暦の行なわれなかった時代であるから、紀年のない古事記的形態が書紀より古いものであり、書紀の紀年は故事伝承をもとにして作為したものであることはいうまでもない」。

「神武天皇元年が讖緯説(しんいせつ)に基づいて、西暦前660年に置かれている事は学会の定説になっている」。
「この讖緯説は中国の道家の学説で、1260年ごとに大変革が起こり、その年を辛酉(しんゆう)と甲子(こうし)とするものであるが、これを日本にあてはめて神武元年を推定したのは、聖徳太子の時代であったと考えられる」。

神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。

このあとに林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。まさしく推定であって史実とはいえない。

しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。


ビッグ対談 羽生善治 成田悠輔




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