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世界の表と裏、それは一体ではない

2023年03月26日記事

ネパール少数民族「ラウテ」絶滅の危機

ネパール少数民族「ラウテ」~

自ら「森の王」と名乗り、ネパールの森林地帯で移動生活を続けるわずか140人の民族集団・ラウテ。厳しい掟と独自の文化を900年守り続けている。外の人には決して見せない猿の狩猟。森で中で密かに行われる火祭り。そして、大人も子供も手斧一本で彫り上げる見事な木工品。しかし今、里の住民との争いを避けることで守ってきた生活に異変が。時代の変化にさらされる謎の狩猟採集民と、その中で成長する少女の10年を追う。

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チベット美人揃いの社会

今朝は、ニュースネタを、散々探し歩いた挙句、どこもかしこも西側、またはそれに準じた国内ニュース(アメリカ経済FRBバブル. )関連記事ばかりで、辟易したが、それはそれは大事な経済ニュースに違いないが、日々、家計逼迫のおり、それを読んだところで、赤字幅が減少するわけでもない。

そんな折、昨晩みた番組テレビが秀逸だった。圧巻圧倒されたが、「そうだよね」、で終わってしまい、見る側としては手も足も出ない。また変に「偽善援助」などしてしまえば、国内政治干渉と誤解され仇となることは必至で、手をこまねいているしかない。

としても、そこには原資人間の生活スタイルが堅持されていて、われわれのやっている「田舎古民家暮らし」とはまるでスケールが異なっていた。当然だ。

強く印象に残ったのは、現地の子供らが、斧で倒木した木材ブロックから、生活日用品を、ノミ一本で削り出して何でも作ってしまうという技術には感心した。なかでも、木目食器お盆トレーは、日本で昔からあった、ノミ跡削り出し、とまったく同じで、そのルーツが、ここにあったのかと痛く感嘆した。

そこの生活では、やはりテレビでよくやっている「アマゾン原住民」の過酷な日々生活と同一で、また、そこに西側生活インフラが浸食して入り、事ごとく民俗意識を破壊してしまうという構図はまったく同じだった。

中でも゛生活改善゛と称して「現金」配布するという暴挙に、人々は翻弄され、われわれにしても、「タダ金」が手に入れば、よからぬものに手を出して生活破壊に至ることは明らかだった。

そこでは、その現金で酒を買いあさり、「酒浸り」に陥るという、これまた少数民族特有の西洋式「甘い罠」にはまって、地に落ちるという典型を踏襲している姿だった。
「願わくはそこから」~と思いつつ、多分、そこから抜け出すのは100%不可能と思われた。

すなわち遅かれ早かれ、彼らの大多数は、どんな手練手管を施しても、その「甘い汁」の味は覚せい剤と同じくらいの効用が存在していると見ていい。結果的には、種の消滅が根絶やしに進行するという淘汰が訪れる。

またそこには「猿食」という食文化が、残っていたが、その奇異に見える食生活は、他民族との共存方法で、その犯すべからざるテリトリー領分、としての「猿」であり食料の分割によって、動物たちと共存しているという生活の知恵だった。

この日本でも、昔から「四つ脚動物」(鳥食する)は食しないという古い掟(多分儒教思想)があって、いまだにそれそを堅持している人達も、ないことはない。

そうした古代生活の「タイムスリップ」を見ることで、自分たちの生活ルーツを知り、あわよくば自己「アイデンティティー」を垣間見ることができれば、彼らの生活がそこに残っていたことに絶大な賞賛を贈らなければならなかった。

ネパール 「ラウテ」族

ネパール西部に、森の中を遊動して狩猟採集を続けている「ラウテ」という民族がいる。
彼らは、サルだけを狩りして食べるという特異な狩猟形態をもっている。森の中では、男たちがサルの狩猟を行い、女性たちが食用となる植物を採集する。また、男は森の木を切って容器などの木工製品を製作し、それを農村に持っていき、穀物と物々交換する。
つまり、狩猟採集と「木地師」との複合形態をもつ人々である。
つまり彼らは、マハーバーラタ山脈南麓を中心に一年中移動しながら生活している)。木の枝を組んで簡単な家を作り、数十戸の家からなる集落(「ラウティ」と呼ばれる)、に住み、数週間から 2 カ月ほどで次の場所に移動する。

外部の者に対して、彼らは「あなた方は宮廷の王、私たちは森の王」と言い、定住を拒み、森での自由な生活への誇りを語る。ラウテは、自分たちを高位カーストのタクリ族であると主張するが、ラウテの由来について正確なことは分からない。彼らは「カンチ語」を母語とするが、リーダーであるムキヤをはじめ、男たちの何人かはネパール語も操る。ラウテはネパールでも最も少ない人口の民族である。正確な人口統計はないが、遊動ラウテの人口は 200 名以下である)。
筆者らは、2007 年 11 月から 2010 年 12 月にかけて、森の中の彼らのキャンプ(移動する集落)を何度か訪問し、観察と聞き取り調査を行った注 3)。
初めてラウテのキャンプを訪問したときの印象は極めて強いものがあった。ダイレク郡でラウテの居場所を村人たちに尋ねながら車で移動していたとき、街道沿いの茶店の近くに、白い布のマントを身につけて長い棒を杖のように持って悠然と歩くラウテが現れた。彼らに「あなた方のキャンプを訪問したい」と願い出ると、案内してくれた。

舗装道路から森に数メートル入ると、森を開いて作られたラウテのキャンプが現れた。木の枝で作られた長径が 4m ほどの長円形のドーム状の小さな家が立ち並び、地面に埋めた木臼を 2 人の女性が杵をついてイネを脱穀していた。木立の向こうに、道路をトラックが走るのが見えた。

ラウテに関する研究は、長期の本格的フィールドワークに基づくものはまだ行われていない。それは、ラウテ自身がこれまで、外部社会との接触を拒んできたからである。しかし、ある程度の観察と聞き取り調査による研究が行われている。中でも 1997 年の現地調査に基づき 1998 年にネパールで刊行されたルインテルによる研究は、主として 12 日間の聞き取りによるもので、生態的な記述ではあるが、既存の研究の中では最も民族誌的データが充実している )。
また同じく主として1997 年に行われた現地調査に基づく Fortier の研究が 2009 年に発刊された。Fortier の研究では、外部からの「同化圧力」にも関わらず森での遊動生活が維持されていることから、採集狩猟民の文化の弾力性(根強さ)が強調されている 2)。

筆者らのフィールドワークは、ラウテのキャンプでの観察と聞き取りによるものである。それぞれ短期間ながら、2007 年から 2010 年までの足かけ 4 年にわたるものであり、その間の急激な変化を視野に入れており、これまでの研究から一歩踏み込んだものと言える。まだ調査が不十分ではあるものの、1990 年代後半のラウテの生活や社会と比較することで、より動態的な側面に光を当てることができた。

ルインテルの調査時点では、「ラウテ族の社会では、ラウテ以外の人びとを自分の居住する土地に招き入れない」と述べられている。ルインテルの調査時には、ラウテのムキヤ(リーダー)はマン・バハードゥル・サヒー))であった。筆者らの最初の調査時の 2007年にはマン・バハードゥルは存命だったが、2009年に死亡した。ムキヤは娘婿のマイン・バハードゥルに継承され、彼が筆者らの調査の主たる協力者となった。2007 年の調査時には、森の中のキャンプの訪問は許されたものの、短時間で退出を求められたし、写真を撮ることは許されなかった。

その後、度重なる訪問と共に、著者のカナルが現ムキヤと特別な友人関係である「ミト」となったこともあり、2009 年、2010 年になると、キャンプでの長時間滞在や連日の訪問も可能となり、写真も自由に撮らせてもらえるようになった。
本稿ではまず、第 1 章でルインテルの著書の内容を中心に「遊動ラウテ」の概要について述べる。
ルインテルの研究はネパール語で刊行されている。そこで、彼の記述の中でラウテの生活や社会をよく表している部分をとりあげ、まとめておきたい。ここでは、筆者らのフィールドワークのデータも補足的に加え、「遊動ラウテ」の伝統的な生活や社会を記述することにする。第 2 章では、主に「遊動ラウテ」の変容に焦点を当て、現地での聞き取り調査の内容を中心に記述する。資料的価値を保つために、重要で興味深い部分は質問に対する生の回答の形をとる。第 3 章では、近年のネパールの社会的・政治的変動を取り上げ、ラウテ社会の変容への影響について分析する。

第1章「遊動ラウテ」の伝統的な生業と社会)

狩猟と採集

ラウテにとって重要な生業活動として、狩猟・採集と木工がある。狩りはラウテにタンパク源を提供してきた。彼らの主たるカロリー源としては、木工製品と交換して得られる穀物である。森の野生植物の採集は、カロリーを補うとともに、食の多様性に寄与してきた。

ラウテはサルだけを狩猟するという特異な特徴をもっている。サルの狩猟はネットを使った追い込み猟であり、弓矢などは使用しない。サルの種類はアカゲザル(学名 Macaca mulatta)、アッサムモンキー(Macaca assamensis)、グレイラングール(Semnopithecus entellus)の 3 種である注 6)。ラウテは狩猟をおこなっているところをヨソ者には見せない。また、狩猟に出かけるときには、誰とも話をしてはならないというタブーを維持している。

彼らは狩猟に行く際、5、6 人の場合もあるが、多いときには 60 人ぐらいのグループになることもある。人数が多い場合、3、4 グループに分けると、1 グループは 15 人から 20 人の規模になる。
高齢者、子供、女性は狩りに出かけないが、ムキヤは狩り付いていくが、必ずいなければならないというわけではない。狩猟に行く前日、若者たちが集まって話し合い、狩りの場所や人数、グループ数などが決められる。当日、狩りに参加する者たちが、狩猟ネットを腰に巻いて狩りに出る。


引用PDFフアィル https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/186081/1/himaraya_12_163.pdf


voice.チベット ラウテ族

ラウテ






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